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(^_-)-☆Indonesia Now [情報]

 2845 Musim Hujan ムシム フジャン(ムシンウジャンと聞こえる) 雨季ですね。ジャワ島は、この10月辺りから雨季になるのが、まともです。日本の秋から冬にかけて、約半年が雨季です。そして、この時期を、多くのインドネシア人は、ムシン バンジールと言います。洪水の季節と言います。今年も例外ではありません。しっかり、ジャカルタは勿論、第二の都市、スラバヤも、毎日のように、洪水の報道がある。どこも、酷いが、今、一番、ニュースになっている都市は、バンドゥンだ。中心部で水が引いていない。インドネシアの洪水は、一般的に、ムルアップMeruapが原因です。氾濫です。インドネシアの川は、例外的なカリマラン(ジャティルフールから、灌漑や工業、飲料水をジャカルタまで引く、人工河川)のほかは、堤防がない。そして、曲がりくねっている。Sungaiスンガイ、川ですが、Kaliカリ、中小河川をこういいます。雨季になれば、これらに水位が増して、溢れ出るのです。ジャカルタで有名なCi Liwungチリウン川は典型的です。ジャカルタ北部は治水が進んでいて、最近になって、この川からの氾濫はなくなったが、ボゴールのサラック山などの水源から、ジャカルタ南部に掛けては、相変わらず、毎年、場所を変えて、氾濫洪水がある。この川は、ごみ川としても有名だ。川の表面が何キロにもわたって、水が見えなくなるほど浮いているゴミで水面が覆われることがある。
ABB アーベーベーと言います。Apa Boleh Buat “どうしようもないね“と、いう意味です。ガパパUgak Apa Apa 大丈夫、問題ないよ、気にしない、という意味です。
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これは、ジャバベカ2とチバトゥ間の新しいサッカースタジアムの脇、日系のシニアーハウス(老人ホーム)やモミジ(日本食レストラン)に入る、新興住宅地の昨日の洪水風景です。ここもカリの氾濫でした。三年程前までに整備された片道二車線と三車線の広い道です。両側の側溝も広く深いはず。中央分離帯がKALIになっている。まさか、こんなところで洪水?と思うような場所でも、こんなになるのです。折しもこの道を北に進むと、紅葉祭りの会場がある。アフマッ ダニとそのファミリーが来ていた。ゴルフをしている最中、彼のバンド演奏の大音響と彼の大声が、聞こえてきた。

https://www.youtube.com/watch?v=y3LcVJuw--M
JKT48のハルカさんが、レギュらーで出ていたトークショーという、スレとアンドレがメインのバラエティです。日本から戻った遥香さんが、戻っていますね。日本で彼女が、この番組を紹介したシーンも出てきます。しかし、彼女、どうでしょうか。この日、26日だけの登場で、その後、再び、見なくなった。
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キャリーパミュパミュ?という女性が、奇妙な歌を歌っている番組、何かのコンテストだったのでしょうか。アジア各国から一人ずつ登場して、その国の言葉で歌っていた。彼女の歌はインドネシア人の相当、受けたようで、観客からの拍手がノリが一番良かったように見えた。
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今日のゴルフもいい天気でした。それでも、午後には雨が降った。今日も、スタート(7時)前のボゴール方面の山、サラックやプトゥリが見える、40㎞程南だ。


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(^_-)-☆船上泊の旅 [思うこと]

 2844 先ほど、ゴルフを終わっての昼食を取ったうどん屋で、なんとなく眺めたジャカルタ新聞に、スンガイ マハカムの記事があった。読んでみると、ダヤッDayakのことがちらっと書いてあって、そこの子供写真があった。ダヤッ族と言えば、女性が両耳たぶに穴を開けて飾り物をはめ込み、だんだん大きくしてゆく習慣があった民族として有名だった。多分、もう、いなかったのでしょうね。書いたように、その時には、もう、その習慣は無くなっていて、この人達(当時70歳と聞いた、今の私より3歳若い)が最後だから、と、聞いていた。だから、もう、いなかったのでしょうね。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage022.html
http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage00073.html
私が行ったのは10年以上前でした。頭の直ぐ上にある空が近いことと、海でなくても地球の丸さが分かる場所がありました。
また、淡水に棲む、川イルカのことに触れていなかった。世界で二か所?のうちの一か所と聞いていた。絶滅したのでしょうか。もし、会っていれば、記事にしたでしょうから。
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雨季の快晴が一番、じりじり暑い。その中でゴルフ、リッポチカランで食事をするので、帰りに立ち寄ってみようかなと思いながら、紅葉祭り会場前を通過した。13時前だった。明るい雰囲気に見えた。
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こちらは、チバトゥインター脇のフライオーバーからオレンジカントゥリー(こちらは、4月に桜祭りの会場になる。ここもいい天気。
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食事を済ませ、オリンピックの清算をし、ジャバベカ2の会社によって、ちょっと仕事を手伝っていたら、大雨になった。直ぐ近くに落雷も派手になった。ゴルフは止めだろう、雨季は、こんなのものだ。午前中快晴でも、一転俄かに掻き曇り、大雨になり、水溜りがあちこちにできてしまい、水はけが悪い場所には、直ぐに膝下浸水になるのは決まった場所だ。帰宅途中の寄るつもりだった祭り会場を通過した。こんな土砂降り、他人の殆どいなくなっていた。16時過ぎだった。去年が一回目だったが、矢張り、大雨に祟られたと記憶している。日本の秋は、インドネシアでは雨季だ。祭りには、適さない時期だ。一方、桜まつりは4月だから、乾季。祭りに適した時期だ。
  


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(^_-)-☆HDPEプロファイル [押出成形]

 2843 硬質(高密度)ポリエチレンの異形品の事です。異形品、丸棒、板など、比較的断面積が大きい場合は、固化押出が原則です。小さくても断面が丸い場合は、出来るなら、小さいものまで固化押出で作る必要がある。何故でしょうか。真ん中に、私が言う“ス“空洞?気泡?ができてしまうからです。理屈は、たびたび、触れているが、溶けた樹脂が固まれば体積が小さくなるからです。外側が先に冷えて固まってしまうのが普通です。固まった状態がある程度、固い樹脂は、外側の大きさが先に決まってしまっているのに、中側は、外側に付きながら遅れて体積が小さくなるのですから、真ん中が空洞になってしまうのです。外も中も、とにかく断面で同じ速度で冷却固化されるなら、そんな方法が簡単にあれば、その心配はいらないが、そういう分けにはいかない。
比較的柔らかい樹脂の場合は、逆に内側から不規則に引っ張られるので、外側の丸さを保つことができなく、不規則な楕円になってしまう。丸い製品ができないのです。

だから、真ん中辺りの収縮に従ってできる密度が小さい箇所に圧力を掛けて、樹脂を送り込み、“ス“をなくすのです。製造速度、冷却速度、背圧力のバランスが悪ければ、”ス”ができてしまうし、“ス“が出来なくても,歪の問題が生じやすくなる。硬いPOMが一番厄介だ。N6,N66も問題が多いが、水分を吸わせれば解決する場合が多い、POMはアーリングが、欠かせない。

で、今回のHDPEの異形品、比較的断面が小さいし、固化押出の設備はないし、溶融押出で作るしかない。丸ではないので、”ス“が、出来る心配はしていない。というのは、それほど固い樹脂ではないし、冷却速度が遅いので、そこ側が、がっちり固まった状態にはならない。それに、丸ではないから、遅れて収縮する中の樹脂に引っ張られて、外側が変形をする。直線の辺は、内側に退ける。とにかく冷却が遅い方に引っ張られて変形をする。イこれまでの経験から、変形を予測し、冷却金型の製品が通過する穴の形状を作る。その空間で、OKになることは100%ないので、その時、その金型でできない場合は、何処を修正するようになるかも、予測をし、修正の時に金型を新しく作るのではなく、その金型を削って修正できるようにするのがコツです。全ての作業は”勘“の世界です。一発修正でできるようにしたい。

関係ない話かもしれないが、日露戦争の時にバルチック艦隊をやっつけた、秋山真之は、“天気晴朗なれども波高し、”と、つぶやきを打電し、勝ち戦を確信したのも、勘の世界だったと思う。見通しは良い、が、波が高いから、ロシア艦隊は、標的をとらえるのは、難しいだろう、しかし、自分には、それほど難しくないと思ったのです。それは、三回目には必ず命中させるという訓練してきた裏付けがあったからです。一発目を打って、二発目は、一発目が、標的の手前だったか、過ぎたかを見、その反対側で、同じ距離になるように標準を定める、その結果を見て、三発目は、一発目と二発目のほぼ中間あたりに定めれば、100%近く命中させるという訓練をいてきたからだ。
少しずつ、近づけようとするのではなく、通り過ぎさせて、戻って、ぴったりにするという手法だ。私は、修正が効く場合はそうしているし、新製品で製造速度を決めるときに、考えよりゆっくり引っ張ってみる、次に,早すぎるだろうと思う速度に上げてやってみる、三回目に、生産速度を決めるように指導している。その速度で、金型を修正や冷却場所やバキュームの強さや位置を最適にするように指導している。
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この写真の冷却金型には、上に二か所、下に二か所、ホースニップルが取り付けられてある。これに何を繋ぐか、繋がないか、製品の出来具合をみて、調整する。冷媒(水など)空気、バキュームの位置や数や程度など、無限大の組み合わせができる。これも、勘の世界だ。それと、もう一つ、肝心なことを私は書いていません。それも勘ですが、必ずすることがあります。この金型には、それをまだしてありません。した後かどうかは一目で分かります。
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この金型も、最初の金型を削っただけで出来上がっている。どう、削ったか分かりますか。そんなに難しくはないですよね。
 

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(^_-)-☆高速鉄道情報 [インドネシア]

 2842 インドネシアの高速鉄道(ジャカルタ、バンドゥン)について、なんだかんだと、書かれているようですが、現状に関して私の印象です。私が住んでいる場所は、チカランCikarangです。ジャカルタから東、40Kmくらいにある、辺りには、日系企業が腐るほど進出している。高速道路や国道など、優先で整備される地帯です。高速鉄道(KC,Kereta Cepat)も、当然、私が住んでいる辺りを通過するはずです。ジャカルタの出発駅はハリム(Harim)で、ジャカルタの南東に位置し、ハリム空軍基地、空港で知られている。日本人はハリム1,2などのゴルフ場があるので場所を知っている人も多いと思う。空港は民間機も使っている。中国の密漁船を爆沈させてしまうことで有名なスシ産業大臣?が、経営するスシエアーもここから、地元のパンガンダランにセスナ機を飛ばしている。

カラワンに次の駅が計画されているはず。ということは、街の方ではなく、高速道路から南の方を通過し、工業団地でいうと、KIIC,スルヤチプタ、ミトラカラワンなどなどのまだ南を通るのでしょうか。かなり、田舎の少し山岳地帯の入り口地帯に駅ができるのでしょうか。町からはアクセス道路がない場所なので、先ず、その買収や工事から始めなければならないでしょう。多分、チカンペックまで行かないで、カラワンティムールから南に向かうでしょう。ジャティルフール辺りで高速道路の東側になるでしょう。そのまま南下し、ワリニWaliniという、本当に、本当に山の中の何もないところに駅を作る。ジャカルタから130Km地点だ。そこから高速道路に沿って、西に向かう、バンドゥンの南のバイパス的高速道路を跨いで、南に終着駅トゥガルアルTegalluarを作る。田圃の真ん中なので、ここまでも道路を作らなければならない。
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この地図のワリニの場所は、違っていると思う、もっと、南になる。バンドゥンにもっと近い。白抜き線が高速道路。私は、この地図のハリムとカラワンのちょうど真ん中辺り、高速道路のちょっと北側です。

私は、この辺りを頻繁に車で走りまわっている。特にカラワンまでは、一月に数回往復している。KCの工事が始まっている気配を一切感じない。関連車両も見たことがない。路線工事の前にアクセス道路を作らなければならない場所が多いはずだが、その気配も全くなし。インドネシア人に、何処を通るのと聞いても、全く、知らないという。ハリム1でゴルフをした人から、ハリム2のゴルフ場が駅の工事の為に閉鎖されているという情報だけ,それが、唯一の関連情報です。

開業、2019年5月?二年半後?100%無理。もう、インドネシア人、誰もがこの話には触れない、半年前までは、このことがテーマの討論会などもあったが、それも、今はない。政府や財界の人も触らない。ジャカルタの地下鉄ニュースは頻繁にやっているが、テレビでも、触れない。工事現場らしい様子がながされたのは、去年の起工式の時だけ、その後の工事の様子や主要人物が様子見なども全くなし。もう、工事が始まらないのではないかと多くの人は思っている。
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そう、元々、このルート自体が、誤り。なんで、バンドゥンなんか通るの?火山の多い山の中を抜けて、その先も、中都市まで繋げるのに、そこまで以上の山の中を通らなければならない。バンドゥンまで作ったとしても、大赤字になることは分かっているはず。その先、チレボンまで作ったら尚赤字が増える。近い、カラワンまでKCを使う必要はないし、ワリニ?それ、何処?ていう感じの山に中のド田舎、ここに駅を作ってどうするの?バンドゥンから車で来て利用する人はいるの?トゥガルアル?何もないところだから、駅を作りやすいと思うが、バンドゥン関連の人達だけの利用、大した人数にはならない。滅茶苦茶怖い、起伏とカーブがきつい高速道路だが、それを使った方が安くて便利のはず。興味本位で最初は利用する人がいるかもしれないが、直ぐに、極端に利用客は減ると思う。ジャワ島縦断高速鉄道でバンドゥンを通ることが大間違い。工事費も平地の何倍も掛かるはずだ。バンドゥンからチレボンまで繋げたら、なお、大赤字を覚悟しなければならない。それが、証拠には、バンドゥンからチレボンまでの高速道路はないし、作らないでしょう。
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この地図は、日本に依頼しようという話がある、中高速鉄道、時速150~200Km。スラバヤまでのルートは、バンドゥンを通らないで、北の平坦な田園地帯を通る。(一部の報道では、中国が受注したルートと同じようにバンドゥンを通るように書かれているが、それは、間違いです)このルートが正解。現在の鉄路をそのまま使えるので、複線化と高架化を重点工事になる。(現在の線路はほとんど、高架がないし、細い道が下をくぐるようになっていないので、日本が引き受けるなら、ぜひ、踏切をできるだけ無くしてほしい、それが、安全性とダイヤ通りの運行できる第一条件だから。)
第一、競合の空路もスマランとスラバヤにしか飛行場がない。工事アクセス道路もほとんど作る必要はない、高速道路はすでに、チレボンの先、中部ジャワに入っている。この高速道路は何回か走ったことがあるが、全く平坦、トンネルは全くなし、その先、スラバヤまで、トンネルを作ったり拡張したりする必要もない。なんで、高速鉄道もこのルートにしなかったのかなと思う。
経費は、バンドゥンまでは145KM,こちらはスラバヤまで700Kmだが、工事費は半分以下、採算は絶対、合う。この路線なら、政府保証を必要ない。日本企業になら、銀行も積極的に投資するでしょう。

ジャカルタ近郊の通勤列車の多くは日本からの中古をそのまま使っている。非常に人気がある。そのまま使えるには、レール幅が、日本規格の狭い軌道になっているからです。元々、インドネシアの鉄道網は日本が占領した時に新たに敷設した路線が多いのです。インドネシ国民は日本が手伝ったとなれば、無条件で安心するのです。バンドゥンまでの高速鉄道のことは、もう、無視して、次の手伝いのことを考えればいいと思う。私は、むしろ、中国に持っていかれてよかったと思っている。厄介払いをしたと思っている。私は、中国に発注した時から、そう、書いている。中国は、貧乏くじを強引に引いて喜んでいたのに、今になって、気が付き始めたようだ。


タグ:高速 頓挫 中速
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(^_-)-☆いつになる? [状況]

 2841 新工場に関して打ち合わせた。もう、いい加減に、見通しをつけてよと言ってやった。遅れ遅れで今に至っていて、この先、いくら何でも、それほど誤差なく、引き渡し日を決めてほしい。

今日の状況と今までの進み方から、推測すると、なお、三週間ほど掛かる。しかし、ここの持ち主、今月中に、全てが終わると言っていた。とんでもない話だが、口から出まかせが癖なのでしょう、この人は。今までの二回の納期約束が大幅に遅れていて、未だに引き渡しができていないことなど、全く、意識していない。私は、来月の12~3日頃、引っ越しと決めた。そても、まだ、多少の不安がある。もしかしたら、もう、一か月、今のところを延長することもある。

その売り主が、銀行の人間を連れてきた。AGと大きく書いてある銀行だ。その人たちに聞いた。この工場は買ったのか、借りたのかと。ENDOTAが買ったという。土地、建物、若干の設備をまとめて、3,5M(ミリヤール)Rp(二千六百万円くらい)で、1Mは、エンダンさんが払ったので、残り2,5M(一千九百万円)を10年ローンでその銀行から借りる。そして、毎月の支払いが30ジュタRpだという。3.6M払うことになる。借り入れの1.5倍の金額を返すことになる。ま、私は、間もなくここにいなくなるのだから構わないが、零細企業としては大変なことだと思う。投資者が決めたことだから、仕方がないが、場所も最悪だし、無茶をするなと思う。

それと、引っ越し費用だ。電気の配線工事をすぐに始めなければならない。見積もりを取ってあるが、150ジュタ(120万円)以上かかる。POを今日、発行した。そんな、余裕はない。この金額を、コミサリスは、頭になかった。今皿びっくりされても困る。オーナーからの借りで、処理するしかない。この新工場について、私に相談することなく、決めてしまったものだから。
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新工場前と裏の状態、まだ、この辺り特有の赤土の状態、雨季なので、粘度のようになっている。裸足で泥んこ状態で仕事をしている。コンクリートで覆ってもらいたいと頼んだ、そのつもりだという。これだけでも、二週間以上は掛かりそうだ。

電話もまだ入っていない。一か月半ほど、最初の納期から過ぎているのだし,ほんとは、最初の納期の日までには電話が入っていなければならないはずが、そんなこと、全く、意識していないで、今日、夕方、電話番号を決めてくると言った。また、調子のいいことを言っていた。そんなにすぐできるなら、何故、一か月半前にやらなかったのかと思う。こっちの、頭がおかしくなりそうだ。そして、今日取れたかどうか、明日朝、聞くことになる。多分、まだだと思っている。


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(^_-)-☆MM2100 [情報]

 2840 また、MM2100の最深部まで行ってきた。とにかく遠い、MM2100のゲートから、カワサン インダストゥリーの南端の目的会社まで、15分かかる。車メーカーとそのサプライヤーのパーツセンターが多い辺りを延々、ポリシティデール、ゴットンゴットン、越えながら行く、広い、新しい、数年以内前の道だが、重量コンテナ車が頻繁に通るのでしょう、既に、広く深い穴ぼこがおおくなっている。ポリシティドゥールが原因だと思う。

目的は、新製品の試作品を届ける事でした。何回か触れている、H-PVCとHDPEのプルファイル、各一種類でした。直ぐに、取り付けテストをしてもらって、OKがでた。ホッ、である。約束の期限は28日だった。

一般的に、溶融金型と冷却金型を作ればできると思う製品は、PO或るいは、金型製作依頼を受け取ってから、試作品提出までの期間を一か月半もらっている。これで、期限を過ぎてもできなかったということは無かった。必ず、期限前に提出していた。そして、寸法は図面の公差内に必ず入れた。もっとも、公差については、元々、製品の図面をもらった時に、こちらから、出来るであろう公差を提案するのが通常だ。今回も、期限前に収めた。

MM2100で私は10年以上仕事をしていた。今でも取引先があるので、偶に出かけてゆく、それでも、まだ、私が行って、入って食事をしたことがない、食事をする場所二か所、一か所は、今日行った会社の手前(工業団地の南端)にある。もう一か所は、チカランバラットのゲートからジャバベカ方面の大渋滞を、来るときに知っていたので、高速道路を使わず、ジャラン カリマランで帰ろうと思い、工業団地の東端の出口へ向かった。その出口手前にある屋台村、ローカル地元のための、地元の人による食事処である。同じような屋台村はもう一か所、団地の西橋にもある。ナンブにいた時には、そこへよく行っていた。
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MM2100のレストランというか、食事をする場所は、団地内に多くある。団地が孤立していて、外に出れば、いきなり、ど田舎という雰囲気。リッポチカランやデルタシリコンのように団地の外にいくらでもあるという状況ではない。日本食となると、限られている。ルコに二か所、サービスアパートに一か所、ドライビングレンジの処に一か所、南端の新しい場所は日本食もやっているのでしょうか、知らない。そして、MM2100の日本食は高い。昼食に1000円(12万Rp)が普通だと思う。日本人が価格を上げてしまっているのでしょうね。
ちょっと遅く行くと席がなく、空きを待つことになるとか、個室があるところは、予約ができるとか?
リッポチカランの日替わり定食価格は平均600円(8万Rp)くらい、いずれも税込み。
ローカル色で良ければ、先の三か所とルコの中に二か所、ロッテマートの敷地内に三か所、そして、ドライビングレンジに一か所、ゲートの出口手前を左に入った場所に一か所、ロッテマート脇の出口から高速道路も跨いだ向こう側に一か所ある。但し、日本人はほとんどそういうとことでは食事をしない。
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MM2100は周囲から孤立感がある。EJIPは目と鼻お先、叫べば聞こえるくらいの距離しかないが、こんな道しかなく、車では通り抜けて行き来できない。
  

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(^_-)-☆ダブルスコンビ [人]

 2839 亡くなったダブルスのコンビとの記憶。静高の卓球部の時に、二年から三年にかけて、彼が主将、私がマネージャーをしていた。彼は、高松中学の時から知られた存在だったが、団体としては、私がいた末広には、勝てなかった。確か、彼はシングルでベスト8に入っていたと思う、私は16止まりだった。彼の方が強かった。高校に入って、直ぐに、私も彼も団体戦のレギュラーになった。というのは、その時、私たちより強かったのは、三年に一人、二年に一人しかいなかった。ダブルスはその二人が組んで、私たちはシングルだけに出た。当時、中学が市で優勝を争ったのが、安倍川と末広だった。三年生は、安倍中の出身、二年生が、私の先輩、末中からだった。
その人、現在、精華学園?高校、大学、良く知らないが、理事長かなんかやっているみたいだし、県の育英会の会長もやっているみたいだ。静岡県の事務長みたいな仕事、何年もやっていて、人事異動の新聞に顔写真が、乗っていたのを見たことがある。話はそれるが、その人、K,Mさんで、三番町小学校からずっと、私の近くの上にいた。ケイさんと呼んでいた。先輩が卒業の時に私が送辞を読んだ。その前の年、先輩が送辞を読んでいた、私の姉が、答辞を読んでいた。目立った人だが、結構、面白かった。いい加減な人だった。中学の時の逸話、先輩、三年の時、学校の風紀委員長をやらされていた。ある朝、風紀委員とその指導の先生が、遅刻生徒を見張っていた。先輩はその役目をしなければならない立場だったが、先輩自身が遅刻、そこで、門からではなく、離れた塀を乗り越えて学内に入った。それを、他の先生に見つかって、こっぴどく叱られたのを知っている。その次の年は、私が風紀委員長になっていた。

高校の時には、部のキャプテンだったが、部の仕事は、全く、マネージャー任せで、知らん顔、そのマネージャー、後に、中町にあった県の中小企業振興会の会長になったと思う。私は歩きで、片道一時間くらいかけて通学(三年になって自転車通学)していたが、練習が終わって帰宅する時、先輩の自転車の後ろに乗せてもらって途中まで一緒のことが良くあった。遠回りをして、焼き芋屋に寄ったり、黄金饅頭を食べたり、女学校(中学の時の知り合いも多かった)巡りをした。大学になっても、静大と梨大になったが、国公立の大会や静高の合宿でよく会う機会があった。国公立、北大での開催の時には、先輩、ベスト8まで行っていた。私がやっと32位以内だった。

で、同級のT.Y君の事、二年になると、先輩と彼がダブルスを組んで、私はシングルだけ、そして、もう一人のシングルは、一年生の服織中学出身のF君だった。彼は、北大をでて、地元の藁科?で動物病院を経営していた。

で、また、話が戻ると、二年の時には団体、県中部で二位、個人は8位以内だった。彼は、4位以内になった。二年の後半から、彼と私がダブルスを組むようになった。彼は左利き、一年の時から、私は彼といつも練習をしていた。彼にとって、私が一番良い練習相手だったから、彼が、私を離さなかった。試合形式で限りなく繰り返した。私は不満だった。実戦で、左利きと戦うことは無いにもかかわらず、いくら、私より強いからと言って、左利きだけとしか練習できないわけだから、右利きで相手になる相手は私にいなかったし、そうするしかなかった。当時、彼は中部で、シングルで準優勝、私は、矢張りベストエイト止まりだった。私が伸びなかったのは、彼の練習台になっていたからだと思っていた。何年か後に、彼に、それを言ったことがあった。すると、彼は、左利き相手に、私がいろいろ工夫して、勝とうとしてくれたことで、自分がうまくなったと言っていた。私を頼りにしていたと言っていた。

彼は、静大の夜間を卒業し、県の財務局?に就職し、そして、要職について長く、税務関係の仕事に携わっていた。どこかの税務署長になっていたと思う。左利きの彼とダブルスを組んで、団体戦では、県大会に行っても無敗だった。個人戦はあったが、ダブルス戦がなかった。有れば、ダントツで優勝していたと思う。顧問やコーチの先生がいない部だった。個人戦の決勝の時、既に準決で負けていた私は彼のコーチ役に回っていた。いちいち、私に、アドバイスを求めてくる、負けてしまったが、第三者的に見ると、絵になりそうだと自分で思った。まわりには、大勢の女学生(私たちの同級生、知り合いもおおい)が、彼や私を応援していた。中学の時、同じクラスだった人もいた。彼女は、彼がなくなったことを、直ぐに知ったと思う。その頃には、結構周りから意識をされていたと後から思う。私が緊張したのを覚えている。

当時、県の卓球協会の役員が、壇上にいて、見回していたが、各学校の顧問をしている人も多く、顔見知りになってはいた。中学の時に強かった生徒が、他の高校に進学して、出てきている。私を含めて、それほどでもなかった私たちが、コーチの先生もいないのに、自分たちだけで、中学時に負けていた他校の選手より強くなっているのには、感心していたようで、“お前ら、矢張り、静高生だな”と、妙に感心されたことがあった。

昨年の暮れ、彼のことを知って、書いたが、そういう歳になったのかなと思う。折しも、大学の時の応用化学同級会の案内のメールが入った。何故か、12月2日だそうだ。金曜日にするということと、送られた人数が30人、どう読めばいいのでしょうか。私は、行けない。その時、日本にいないから。
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タンゲランの“こしひかり”5kgで15万Rp,安いし、美味しい、私はこれにしている。“富士光”は23万Rpだ。
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ジャバベカ ファーマーズ マーケットの駐車場から、東の空を望む。


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(^_-)-☆雨中のゴルフ [思うこと]

 2838 久しぶりの雨中のゴルフだった。一応、期限前に新製品のサンプルが出来あがったので、仕事のことを考えずにできたのは良かったが、7時前のスタートで、8時には、雨が降り出し、それ以後、終了12時ごろにも、まだ、降り続いていた。止めてしまうようなひどい雨ではないが、もう少し強ければ、しばし、休憩をしなければならない、ギリギリの雨が降り続いた。コースは水浸し、あちこちに水溜りができているし、ラフはぬかるみになっていた。グリーン上もうっすらと水膜になっていた。転がらない、体も靴も手袋もグシャグシャ、誰も、止めようと言わないまま、最後まで回った。本当に久しぶりに散々ゴルフだった。こんなこともある。
雨季は、午後から夕方、夜にかけて降るというのが、ここ何年の状況で、早くてもプレーが終わるころ降り出す程度だった。午後スタートは、ほとんど、雨に祟られる。

こんな日のシャワーは暖かくて気持ちがいい。
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今日に白紫の蓮。
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昨日できたサンプル、昨日の写真比較すると、何処が変わったか分かるでしょう。冷却金型の修正は、面白い。まだ、改善の余地がある。速度や温度条件も変える必要がある。

ゴルフの後、昼食、世間話をするのが通例。今日もいろいろ話が出たが、車の自動運転車についてが、その一つだった。そんなことできるの?が結論。考えられない、車線を変更する時、変更するかしないかの判断は行く先によって車線の有り無し、有っても何車線か、どの車線にするか、その先、何メートルくらいで右に曲がるのか左に曲がるのか、その前に、三つの状況を見て、判断しなければならない。それくらいの判断はできるでしょうが、車線幅の事や速度も関係するし、信号機やほかの車の事、渋滞、雨や風、事故や工事や障害物の有無、考えれば考えるほど、難しそうだ。ほとんど不可能だね。生きている間には絶対できないね。出来たとして、今の燃料電池車よりはるかに高くなるだろうね。その前に、ガソリン車が無くなっているんじゃないの。
 

(^_-)-☆タバコ値上げ [インドネシア]

 2837 酒、たばこ、ガソリン、日本ではどうでしょうか、許可された、あるいは認可された、或いは、資格を持った人や業者だけが売ることができるようになっていると思うが、インドネシアではどうでしょうか、多分、同じだと思う。しかし、実態はとなると、ほぼ、自由販売だ。道端で子供か子供に一本売りをしている。小学生がバイクを運転しながら、たばこを吸っている。片手運転も平気だ。

製造に関しては酒、たばこは、矢張り、野放し状態だと思う。ジャワ島以外の多くの島々の田舎では、道端で酒、たばこを売っている、地元産だ。何回か酒を造っている場所に案内してもらったことがあるし、タバコも刻みタバコの手作り家内工場を見学したこともあった。ロンボクやフレーレスの広大なタバコ畑は、盗難が多いとか。ガソリンは、何処に行っても、道端で売っている。これらは、全て、地元の警察や役所が目をつむっている。勿論、コルプシ、プングリの世界だ。ガソリンスタンドではポリタンクに、いくらでも給油してくれる。

タバコの値上げをすると、ジョコさんが言っている。インドネシアのタバコの消費量は、数字的にはよく知らないが、相当多いと思う。喫煙マナーも無いが、それより、健康への影響を心配してのことだと思う。たばこ税を上げるという、しかし、全部の銘柄ではなくて、安い方の銘柄だけ上げると言っているらしい、子供、若者などお金を持っていない連中が買わないように,低級タバコ、ニコチン、タールの多いタバコを値上げする、という。また、急に極端に売れなくなると、献金や納税が減る心配があるし、たばこ会社の何十万人という雇用に影響が出てしまう可能性があるからだ。
インドネシアの現在のタバコの平均価格は、20本で15000Rp(110円くらい)、1本、1000Rp(8円くらい)、滅茶苦茶安い。日本はいくらですか、シンガポールは?ほとんど、只に近い。

インドネシアは偽物の国です。タバコも今でも偽物が多い、値上げすれば、偽物の売り上げが伸びるだけ、コルプシ、プングリを助長させるだけ、という説もある。さて、どうなるでしょうか、私は、10年ほど前から、全く吸わなくなったので、関係ない話。

テレビコマーシャルの50%以上は日系企業、30%ほどがインドネシア企業、その中の多分、20%ほどが、たばこのコマーシャル、そして、たばこ会社の宣伝は、斬新でみんなの目を引く、うまい、コマーシャルだと思う。
余談、テレビドラマや映画で煙が出ているタバコを口にくわえていたり、撮んでいたりすると、その部分がぼかしになる。これは、徹底している。また、ぼかしが入るのは、ピストルやナイフなどの武器を持って入り状態、女性の胸の谷間らしきところ、短いスカートの奥の方、である。死体もぼかされる。手錠や結束バンドは、ぼかされない。インドネシアのバラエティー番組(アダアダアジャアとかヒタンプティーとかトークショーなど)は、毎日、客を迎えて、基本テーマだけで、ライブでやっている、全て、アドリブでやっている、という。しかし、それにもボカシが入ったり、ピーが入ったりする。ということは、完全、生ではなく、何時間か前に収録して、チェック、修正して流していることがわかる。そりゃそうですよね。インドネシアだって放送禁止語は沢山あるはずだ。イスラム教に反することが流されたら大変な騒ぎになってしまう。
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ベルトコンベアーの部品二点の試作をしている。先ほど、一応、満足が行くサンプルが出来あがった。それぞれ、原料は、硬質PVCと高密度PE、PVCの方は、簡単、ほぼ、製品通りの隙間を通しながら、バキュームで引っ張ればできる。押出屋なら、どこでもできる面白くない製品だ。
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HDPEの溶融押出のプロファイルは、多分、インドネシアでできる会社はない。日系の三社でもできないでしょう。これは、途中経過、下は、上に反っているが、平らでなければならない、上の四角い部分はほぼ真四角でなければならない。ダメの例。しかし、これらの全ては修正し、先ほど、図面通りに出来上がっている。
ゴルフをしている最中に、この会社での一番弟子に任せた。
 

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(^_-)-☆楽しい体験 [思い出]

 2836 中学から卓球を始めた。高校も卓球部に入った。しかし、中学でも高校でも同じ学年の仲間では、実力は二番手だった。ほどほどうまく成るのだが、一番にはなれなかった。学校自体は、在学中、二番手三番手としてでた、 団体戦で中学の時は市で二度優勝、高校の時には、県中部で準優勝と三位だった。私は、中途半端に、ほどほどだったと思う。それでも、文武両道を何とかやっていたという意識はあった。
静高の時は、滅茶苦茶楽しかった。(大学の時はもっと楽しかった)顧問の先生は一応いたが、いなくてもよかったし、いない方が、自分たちで運営するのに、いちいち、届けや、許可を取らなくていい。だから、顧問は、私たちに全面任せ、遠征の時だけ、学校から離れられると、喜んでついてきた。

キャプテンは実力が一番の者、二番手が、なぜか、マネージャーになることになっていた。私は一学年先輩のマネージャーの仕事をみて、大変だが、経験しておきたいと思った。いろいろの根回し、準備、キャプテンより、よっぽど、いい経験になると思った。二年の秋から、狙い通りマネージャーになった。卓球の方は、ダブルスに一番手と組んだ、団体戦は、シングル2、ダブルス、2シングルになっていて、三勝すれば勝ち、私は、ダブルスとシングルの三番目に決まっていた。大体、私で決めてしまおうという位置だった。一二年の時は5番目のシングルのレギュラーだった。これも、いい役まわりだと思っていた。私が勝って、勝利に貢献したこともあった。

さて、マネージャーの仕事、予算の獲得、先輩や後援会、その他、公共や商店街などから、多くのクラブ応援の資金が寄付されている。それの配分獲得交渉だ。自分たちの運営予算を立てて、それ以上の配分を要求するのです。ユニフーム、ボールがいくらで、いくついるから、合計いくら、卓球台を新たに買いたい、修理もしたい、遠征にいくらなどなどおもしろい。余らせることが出来れば、みんなで、食事会などができるから、掛かりそうな金額より、水増しをして出す。実際、この時から、領収書も金額を多く書いてもらうことをやっていた。有る運動具やと暗黙の提携をしていて、ボールや各種道具を買う時には、実際支払った金額に20%ほど、多い金額を書いてもらうとか、ネットやラバーを余分にもらうなどをしていた。高校の時から、静高生は、将来、官公庁で仕事のやり方を体験学習していたのです、こんなこと、やっていいの?と、思いながら。今でも、当然、やっていると思う。野球部なんかは、甲子園に行けが、多額の寄付金が集まる、そして、一回戦で負けてしまえば、多額が余ってしまう。それを、どうするのでしょうか、後援会費用の残高としておくのでしょうが、皆で適当に分けることにもなるでしょう。それを、他の部でも狙うには当然でしょう。

練習場所の確保や他校との交流。体育館の四分の一が私たち卓球部に与えられた場所でした。三面を置けた。剣道部が隣の四分の一、半分はバスケットでした。バスケットは、インターハイ常連で優勝をしているし、いつも、上位にあったチーム、きつい練習をしていて、気の毒に思ってみていた。と、いうことで、彼ら優先だから、何かと、彼らが全体を使うことがあった。その時は、前もって、知らされていたので、私たちは、他の場所を借りることになる。多くの場合は、近所の女学校に申し込む、今はどうか知らないが、当時は、城北、双葉、英和、精華、常葉がほぼ4km圏内にあった。それらの学校の顧問の先生に電話して、許可を取る、それは、皆さん、快く?OKをしてくれる。試合などで、顔見知りだし、静高だから、歓迎、そして、何より、迎えてくれる生徒は大喜び、男子禁制など問題なし。私立の学校が多いから、静大生がコーチをしている学校もあり、その静大生には私たちの先輩もいた。そのつてで、体育館が使える日でも、のこのこ、出かけて行ったこともあった。

合宿や先輩たちとの交流、新聞発行。夏休み中、年に一度の部内の選手権があって、先輩を招待する。合宿中に行われることが多かった。社会人、大学生などに参加してもらう、先輩名簿に従って手紙を出した。年に一二回部活動報告ミニ新聞でも、その予定は知らせる。55年前のことだが、今でも、私の処にも送られてくる、寄付金の振り込み用紙も丁寧に同封されている。合宿中のコーチを自主的にやって頂く、卒業して間もない先輩は、夜、泊まり込みで、卒業した後の体験談をしてくれた。私も大学生中は、コーチ役もしたし、泊まり込みもした。スイカなど差し入れもした。当時はお米持参だったので、お米も持って行ってやった。先輩の差し入れは当たり前のことだった。

卓球台で練習する前に体操は勿論するが、学校の外へランニングしに行く、学校一周、1kmは十分あった、4周が普通だった。それでは、面白くないから、浅間さんにも行ったし、百段何往復は普通、ずっと登って行って、地獄谷と言われていた急坂を転げ下り、臨済寺に至って、当時の静大の脇を通って帰ってくるコースもよくいった。また、駿府城の内堀一周も何回も行った。時には、外堀一周もやった。これは、目的の一つに女学校巡りのようなものでもあった。一寸、遠回りして、わざわざ、何か所かの女学校の前を通るのです。学校の前に差し掛かると、なぜか、皆、元気になるし、掛け声も出る。校舎の窓から、多くの学生が手を振ってくれる。それに、手を振ってこたえる。なんてこともやっていた。城北へは方向が違ったし、距離もあったが、そちらにも出かけていたし、一緒に練習する機会も多くあった。

それらの段取りを任せられるのがマネージャーでした。良き、思い出になっている。全然、苦にならなかったし、この役、他の人に取れなくてよかったと思った。既に、無意識のうちに、そのころ、色々の根回しのようなことをやってみていたのでした。
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新工場の現状、最初の完成予定から一か月過ぎている。二回の完成予定日も4っ日、過ぎている。この様子では、まだ、二週間以上かかりそうだ。それに、おそらく、出来たと言われた時に、あそこがダメ、ここがダメと、クレームを沢山つけることになりそうだ。


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