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(^_-)-☆出会い [思い出]

 3349 私から求めた環境や出会いではなく、また、そこでなければならないと他人に押し付けられたわけでもなく、何となく入り込んだり、何となく、会ってしまった環境や人から将来の方向がほぼ確定された。運命というか、付いていたというか、そういうものだと思う。それらを参考にしよう、見習おう、その中で生きていこうと思う。

大学は、公立、浪人ダメという条件だった。一期校、二期校があって、一期校は、無理だと思いつつ受けたが、発表を待つまでもなく、出来が悪かった。二期校は、滑り止め的で、人口宝石で名の知られた梨大応用化学、小学校のころ、山の子海の子交換会で行ったことがったのも理由の一つだった。入ってよかった。妻と知り合ったのもここだったし、三年後半から赤尾先生にお世話になったこと、全く、偶然の世界だ。今、インドネシアで、自分がやりたいことでできているのは、これらの出会いのおかげだと思っている。二十歳のころだ。武田神社で町内の方々から、招待されて、成人のお祓いをしてもらった頃の話だ。間もなく新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されようとしていた。カラーテレビの試験放送も始まっていた。こんな環境の中で、恵まれた出会いでした。赤尾先生には卒業してからも仲人を引き受けていただいた。プラスチック押出成形と出会った就職先も先生のお兄さんが役員をされていた極東貿易のお世話が大きかった。今はどうなっているのでしょうか、東プラ精工は、東洋レーヨンと極東貿易と近くの臼井国際の資本が入ってた。エンプラ押出の日本でのパイオニア的存在だった。

そして、約二年後に、仕事中に現場から応接に呼び出されて、ご対面となったのが、当時、北川ゴム工業の北川社長だった。アメリカの見本市で見つけてサンプルを持ち帰ったのが、射出で作られる結束バンドと自在ブッシュ、そして、押出で作られるエッジングとグロメット。射出製品は、既に、多くの会社がやっていたので、その話ではなく押出製品の方を見せて、太田君、これできるか?問われた。ちょっとだけ、考えて、できます、やらせてくださいと言ってしまった。
http://otaenplaext.net/newpage305.html
今の年になれば、私の履歴書ではないが、書いておきたいことが沢山あるでしょう。私も、そんな年だから。

北川弘二社長、後に会長には、それ以来、付かず離れずのお付き合いをさせていただいた。独立してからも気にかけていただき、仕事を出していただいた。私が社長を辞めて海外へ行きたいといっていた時も気にかけていただき、インドネシアへ進出の時に、どうかね、と、声を掛けていただいた。その後も、機会あるごとに、将来について話をさせていただいた。インドネシアで厳しい状況に置かれた時も、気にかけていただいていたし、帰国したときにいは、挨拶によく出かけていた。跡継ぎに関しては、相談を受けるようになっていた。私は、副社長がやりたいようにやれる環境を自然に整えたらいいと思っていた。

赤尾先生、北川社長それぞれにとって、私は、ワンノブゼムに過ぎないと思う。私以外の多くの人に影響を与えているはずだ。
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最近、妙に多くなった注文。S-PVCチューブだ。サイズもいろいろ、色もいろいろ、この種のチューブは技術的には、簡単に作れるから、ローカル企業でできる(内もローカル)それなのに、どうして、うちへの注文が増えるのかわからない。客先が忙しくなっているのでしょぷ。コリアン系である。
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Durian Ambruk ファーマーズマーケットへ買い物行った。入り口でドリアンを売っていた。我慢できずに買ってしまった。これで、15万Rp(1200円くらい)アンブルックという種類は、西部ジャワと中部ジャワにある。小ぶりで丸く整った形をしている。インドネシアの大部分の種類は種が大きく、実の80%くらいが種で、大体、がっかりする。この種は、その中でも種がそれほど大ききないといわれている。それでも、食べてみたら、70%ほどは種だった。私が普通買うのは、モントンという種類で、これなら、種より食べる部分の方が多い。タイからの輸入がほとんどだ。モントンも売っていたが、試しにこちらを買ってみた。
この方たちと会っていなければ、こんなところでドリアンをよだれを垂らしながら買ったりしていない。
タグ:出会 偶然 運命
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(^_-)-☆高校一年 [思い出]

 3347 選抜の組み合わせが決まりましたね。駒大苫小牧、強豪でしょうね。せめて、一回くらいは勝ってほしいですね。早く負けてしまうと、寄付金が余ってしまうでしょ。

自分から求めたわけではない環境になってしまい、それが、ターニングポイントにる場合がある。 当たり前のように、静高に入った。勉強も運動も両立させるぞと。
当時、今もそうかもしれない。中学運動部で、優秀な奴は、特別枠で入ることができた。だからといって、勉強でも、中の上以上くらいが一応の条件にはなっていたと思う。それはいいのだが、私の一年の時のクラスのメンバーを見てびっくりだった。40人中、野球6人、柔道2人、バスケット2人、硬式テニス1人、剣道1人、重量挙げ1人、そして卓球1人私、私以外のメンバーは、野球部の一人を除いて、明らかに運動能力で入ってきた連中だった。そして、彼らは、県代表クラスになるだろう実績があった。事実、彼らの何人かは、後に、インターハイで優勝している。一つのクラスに纏められたのだと思う。で、何で自分がこのクラスに入れられたのだろうか。卓球はやっていたが、とてもじゃないが、市の代表の一部くらいになれるかの実績しかない私が、運動で引っ張られたわけではない。学力一本で入ったはずなのに、運動部連中が集まるクラスにいれられてしまった。多分、運動部に属さない他の20何人は、私と同じように思ったと思う。

 昨年末、中学3年の同級会をやった。何度も書くかも知れないが、その中に、高校一年の時、同じクラスになった野球部員がいた。彼は、中学野球県大会で、準優勝メンバーで主将、首位打者にもなったやつだ。勉強もクラスで二三番に入る実力だった。そして、高2の時に、甲子園で準優勝メンバー、セカンドだった。決勝で法政二高の柴田から二本のヒットを打っている。私自慢の同級生だ。そいつが、この前の同級会で、中学の時の話はさておいて、高一の時の話をした。“太田、お前な、俺にな、こんなクラスに入れられたばかりに、馬鹿になっちゃよ、ボールの紐を縫ったり、グラブの手入れをしたり、授業中だぞ、勉強の雰囲気なんて全くない、そんなことばかり言っていたよな”思ってはいたが、実際、彼には、ぼやいたのかな、あまり、覚えていないくらい、自然に言っていたのかもしれない。それが、彼にとっては、引っかかってたのでしょう。笑い話だ。

 中三のクラスの中に、サードの彼のほかに、ピッチャーとファーストもいて、中学野球の決勝戦で負けてしまった責任はお前だ、いや、俺じゃない,あいつだなどと言い合っていたのも、面白った。

 周りに影響されるのも自己責任かもしれないが、高一の時、あのクラス以外だったら、他の大学に進んでいたと思う。別の人生だったと思う。クラス分け担当する人物は、そんなことを思ってほしいね。その人の人生の方向を決めるかもしれない。選抜組み合わせのニュースを見たので、ふと思った。
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ゴルフの後、会社によって、一寸仕事、終わって、出口に向かう。小さな工場の並び、プレス機が、とんとんと,稼働していた。外に道に出る、手前の水溜りは、雨季中、消えない。このクラスでなかったら、この写真もなかった。
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(^_-)-☆中学同級会 [思い出]

 3235 終わった。74歳、同級会。私がやらなければ、やらない同級会、5カ月余りの日本滞在中の一行事だった。会場もどこにするかわからない、地元にずっといる同級生の一人に相談して、決めた。そして、皆さん、大学の同級生と違って、メールアドレスを持っていない人がほとんどで、ずっと以前と同じように、昔の住所録を頼りに確認の往復はがきを送って、正誤の確認から始めた。三分の一が、住所表示が変えられていて、届かなったり、その住所はあるが、そこにいなくて、届かなかったりして、戻ってきてしまった。それでも、以前の名簿の電話番号にかけてみたり、住所が近かった人に聞いてみたりして、何人かの住所を確認した。住所表示の変更については、市のインフォーメーションに変更後の町名を確認した。旧名簿の後、亡くなった人も何人かいた。
出欠の返事をもらうための葉書と案内状や会場地図を送って、出席の返事は、45人中16人だった。三日前に、うちの母が緊急入院をしてしまったという知らせが入り、結局、出席者は、担任だった先生を含めて、16人だった。

会場は、元慶喜の別荘の近く、静岡駅の近くでした。繁華街の近く、勿論、初めてで、自分が地図を送っておいて、場所を見つけるのに戸惑った。インドネシアの方が全く迷わない。15:30開始で、私はその20分前に着いたが、既に10人ほど見えていた。懐かしい顔、10分前には、予定通りの16人が、揃った。全ての人の名前は、呼んでみた。合っていた。

私の挨拶から始まった。とにかく、皆さん、気さくだ、現状報告から、ずっと昔の話、話が弾むこと、いつの間にか、自分も移動しながら、巻き込まれていた。時間は瞬く間に過ぎた。

私たちのクラスは、何故か運動部に入っている人が多かった。野球部が四人中三人出席していた。ピッヤーとサードとファーストだった。彼らのチームは、県で三位になった。それでも、凄い成績だった。そのことを、自分たちはよくやったよな、という話をしていた。その話を聞いていたら、そのうち、ファーストが、ピーチャーに、あの時、お前が暴投しなければ、俺たち優勝していたはずだよな、と言い出した。すると、サード(こいつ、この県大会のリーディングヒッター、後に、甲子園で準優勝メンバー)が、そうだ、今思い出した、お前が暴投したのを。すると、ピッヤーが、違うぞ、セカンドに、お前の足が短い、手が短い、グローブを出すのが遅かったからだと、言い返した。すると、サードがそうだったよな、ファーストに向かって、お前、ベースに足がめり込んでいるようだったものな、と言い出した。この話、げらげら笑いながらだ。

次回は?二年ごとにやってよという。やってよじゃなくて、お前やれよと、何人かに言ってみたが、やはり、次は私がやるよという人はいなかった。次は、いつになるでしょうか。

二次会として、何となく、ばらばらになって、ついていったら、カラオケへ、歌は、ちょっとで、ほとんど、話をしていた。やれやれ、と、皆さんと別れたのは22:30くらいだった。バスに乗るつもりで新静岡ターミナルへ行ったら、最終が過ぎていて、今度がタクシーを探した。まだまだ、街は賑やか、若者が多かった。そんな中を何となく、歩いて、静岡駅方向に、タクシー乗り場に、ついた。

ここから、ありえない話。次々と、乗り込む人がいて、私の番、チョコレート色の個人タクシーに乗り込んだ。丸子6丁目へ、新道を行ってという。運転手、途中で、サークルケーで、旧道に入りますかという。いや、そこの信号を過ぎて、すぐ左に、車はその通り、狭い家に向かう道に入る。家の前に車が止まっていたので、ここでいいと、下りようとした。車の明かりをつけて、運転手、太田さんでしたか、という。え、と、顔を見たら、筋向かいの若者だった。自分の家の前にとまったのでした。びっくり、偶然というにしては、あまりにも偶然でした。

この話は、置いておいて、今日の同級会で、私より熱心に手伝ってくれた人がいた。身体障碍者の補助の活動をしている人で、この人にも偶然中の偶然で会った話は、その時に、書いたが、今日も、何となく、最後、握手をして分かれ、バス停に向かうまで、手伝ってくれた。感謝。
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記念写真を撮った後、皆さんが去った会場。座敷では、立ったり座ったりが大変だろうと思い、いす席にした。
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この料亭のエントランス。
   

バリ島、アグン山の最新情報の一部です。
http://news.metrotvnews.com/daerah/zNA7Y93k-gunung-agung-erupsi-13-penerbangan-dibatalkan
Gunung Agung kembali erupsi dengan menyemburkan material abu dan kerikil. Semburan asap kelabu membumbung setinggi 1.500 meter pada pukul 17.20 WITA, Sabtu 25 November 2017. Belasan rute penerbangan dari dan menuju Bali pun dibatalkan.

アグン山の二度目の噴火で、噴煙の方向が、南西ということですから、デンパサールの街やウングラライ空港方向になる。まだ、50kmほど離れているから、空港閉鎖にはなっていないが、オーストラリア各地からの13便を自主的に欠航にしている。

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(^_-)-☆大学同級会 [思い出]

 3188 来ている、甲府である。10時に出発、ノンビリぶらぶら、決まりの興津から北へ向かう。学生時代、甲府から自転車で静岡まで帰った時、通った道を逆に甲府に向かった。今回は迷うことなく、ひたすら、甲府の看板通りに進んだ。駅を目指し、左に舞鶴城址と県庁の間を通って、中央本線を越えた。会場には、15時ころ入ればいいので、思い出の地を巡りだした。
先ず、小学校の時に、山の子、海の子交換宿泊で、武田神社の左隣にある相川小学校を横目で見ながら、宿泊した塚原部落?まで行ってみた。泊まって家はどこか覚えていなかったが、バス停は見つけた。大学時代にも、何度か、お世話になって家にはいったことがあった。
少し下って、護国神社、そして、なんといっても、竜が池だ。武田神社の右隣、石積みで囲まれていて、中を見ることができないが、学生時代、冬になれば結氷する感慨用水池だ。学校へ行く前に、毎日、アイススケートに通った池だ。氷が割れてハマった同級生もいた。
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愛宕山上った。護国神社の方からだ、学生時代、卓球の練習の前に、走って上った道だ、昔は舗装して無かったが、今は、綺麗に舗装せれていた。大学を見下ろしながらだった。頂上ちょっと下にこども公園?になっていて、車の制限時間が17時までだった。16時半に到着し、急いで、車から降りて、ちょっと南下に走って甲府の市街地を上から眺めた。富士山の頭が、御坂連山の向こうに、昔と同じように見ることができた。
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降りてきて、大学の構内の昔懐かしい応用化学の建物を眺め、そこから、一段上がった、昔、学生課があった辺り、山梨高専時代からの建物、当時がT-0教室だったところの階段、この階段は、皆さんでよく記念写真を揃って取った記憶があるし、その上にがって左側に藤棚がある。当時、学芸学部の女性もこの下によく来ていた。私の妻とも、この藤棚の下で立ち話をよくしていた。“薄紫の藤棚の下で歌ったアベマリア“という歌が流行っていた。

18時前には、芙蓉というホテルに入った。私が最後のようだった、皆さん元気、ただ、自己紹介が、ちょっとね、話がくどかったり、つじつまが合わなかったり、話の焦点が合っていなかったり、聞く方も、あまり、理解していないようだったり、歳を感じさせられた。ま、とにかく、にぎやか、皆さんは、私を会うのが、久しぶりだったこともあり、私からに話はよく聞いてくれたと思うし、興味があったようだった。中に、次はインドネシアでやろうよという話もしていた。

若くして亡くなったK君以外に二人の方が故人になっていた。

ジャカルタースラバヤ間の中高速鉄道への改良工事が来年から始まるようだ。600km以上あるジャカルタ^スラバヤを今は11時間、事故も多い。それを5時間、無事故路線にするという。日系企業で、2021~22年に再開業、中国の高速鉄道、ジャカルタ、バンドゥンは、霞んでしまうでしょう。インドネシア人は、日系企業に大いに、期待している。
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(^_-)-☆楽しい体験 [思い出]

 2836 中学から卓球を始めた。高校も卓球部に入った。しかし、中学でも高校でも同じ学年の仲間では、実力は二番手だった。ほどほどうまく成るのだが、一番にはなれなかった。学校自体は、在学中、二番手三番手としてでた、 団体戦で中学の時は市で二度優勝、高校の時には、県中部で準優勝と三位だった。私は、中途半端に、ほどほどだったと思う。それでも、文武両道を何とかやっていたという意識はあった。
静高の時は、滅茶苦茶楽しかった。(大学の時はもっと楽しかった)顧問の先生は一応いたが、いなくてもよかったし、いない方が、自分たちで運営するのに、いちいち、届けや、許可を取らなくていい。だから、顧問は、私たちに全面任せ、遠征の時だけ、学校から離れられると、喜んでついてきた。

キャプテンは実力が一番の者、二番手が、なぜか、マネージャーになることになっていた。私は一学年先輩のマネージャーの仕事をみて、大変だが、経験しておきたいと思った。いろいろの根回し、準備、キャプテンより、よっぽど、いい経験になると思った。二年の秋から、狙い通りマネージャーになった。卓球の方は、ダブルスに一番手と組んだ、団体戦は、シングル2、ダブルス、2シングルになっていて、三勝すれば勝ち、私は、ダブルスとシングルの三番目に決まっていた。大体、私で決めてしまおうという位置だった。一二年の時は5番目のシングルのレギュラーだった。これも、いい役まわりだと思っていた。私が勝って、勝利に貢献したこともあった。

さて、マネージャーの仕事、予算の獲得、先輩や後援会、その他、公共や商店街などから、多くのクラブ応援の資金が寄付されている。それの配分獲得交渉だ。自分たちの運営予算を立てて、それ以上の配分を要求するのです。ユニフーム、ボールがいくらで、いくついるから、合計いくら、卓球台を新たに買いたい、修理もしたい、遠征にいくらなどなどおもしろい。余らせることが出来れば、みんなで、食事会などができるから、掛かりそうな金額より、水増しをして出す。実際、この時から、領収書も金額を多く書いてもらうことをやっていた。有る運動具やと暗黙の提携をしていて、ボールや各種道具を買う時には、実際支払った金額に20%ほど、多い金額を書いてもらうとか、ネットやラバーを余分にもらうなどをしていた。高校の時から、静高生は、将来、官公庁で仕事のやり方を体験学習していたのです、こんなこと、やっていいの?と、思いながら。今でも、当然、やっていると思う。野球部なんかは、甲子園に行けが、多額の寄付金が集まる、そして、一回戦で負けてしまえば、多額が余ってしまう。それを、どうするのでしょうか、後援会費用の残高としておくのでしょうが、皆で適当に分けることにもなるでしょう。それを、他の部でも狙うには当然でしょう。

練習場所の確保や他校との交流。体育館の四分の一が私たち卓球部に与えられた場所でした。三面を置けた。剣道部が隣の四分の一、半分はバスケットでした。バスケットは、インターハイ常連で優勝をしているし、いつも、上位にあったチーム、きつい練習をしていて、気の毒に思ってみていた。と、いうことで、彼ら優先だから、何かと、彼らが全体を使うことがあった。その時は、前もって、知らされていたので、私たちは、他の場所を借りることになる。多くの場合は、近所の女学校に申し込む、今はどうか知らないが、当時は、城北、双葉、英和、精華、常葉がほぼ4km圏内にあった。それらの学校の顧問の先生に電話して、許可を取る、それは、皆さん、快く?OKをしてくれる。試合などで、顔見知りだし、静高だから、歓迎、そして、何より、迎えてくれる生徒は大喜び、男子禁制など問題なし。私立の学校が多いから、静大生がコーチをしている学校もあり、その静大生には私たちの先輩もいた。そのつてで、体育館が使える日でも、のこのこ、出かけて行ったこともあった。

合宿や先輩たちとの交流、新聞発行。夏休み中、年に一度の部内の選手権があって、先輩を招待する。合宿中に行われることが多かった。社会人、大学生などに参加してもらう、先輩名簿に従って手紙を出した。年に一二回部活動報告ミニ新聞でも、その予定は知らせる。55年前のことだが、今でも、私の処にも送られてくる、寄付金の振り込み用紙も丁寧に同封されている。合宿中のコーチを自主的にやって頂く、卒業して間もない先輩は、夜、泊まり込みで、卒業した後の体験談をしてくれた。私も大学生中は、コーチ役もしたし、泊まり込みもした。スイカなど差し入れもした。当時はお米持参だったので、お米も持って行ってやった。先輩の差し入れは当たり前のことだった。

卓球台で練習する前に体操は勿論するが、学校の外へランニングしに行く、学校一周、1kmは十分あった、4周が普通だった。それでは、面白くないから、浅間さんにも行ったし、百段何往復は普通、ずっと登って行って、地獄谷と言われていた急坂を転げ下り、臨済寺に至って、当時の静大の脇を通って帰ってくるコースもよくいった。また、駿府城の内堀一周も何回も行った。時には、外堀一周もやった。これは、目的の一つに女学校巡りのようなものでもあった。一寸、遠回りして、わざわざ、何か所かの女学校の前を通るのです。学校の前に差し掛かると、なぜか、皆、元気になるし、掛け声も出る。校舎の窓から、多くの学生が手を振ってくれる。それに、手を振ってこたえる。なんてこともやっていた。城北へは方向が違ったし、距離もあったが、そちらにも出かけていたし、一緒に練習する機会も多くあった。

それらの段取りを任せられるのがマネージャーでした。良き、思い出になっている。全然、苦にならなかったし、この役、他の人に取れなくてよかったと思った。既に、無意識のうちに、そのころ、色々の根回しのようなことをやってみていたのでした。
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新工場の現状、最初の完成予定から一か月過ぎている。二回の完成予定日も4っ日、過ぎている。この様子では、まだ、二週間以上かかりそうだ。それに、おそらく、出来たと言われた時に、あそこがダメ、ここがダメと、クレームを沢山つけることになりそうだ。


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(^_-)-☆遠い記憶 [思い出]

 2776 オリンピックの閉会式の様子を見た。勿論、東京オリンピックへの引き継ぎセレモニーが興味深かった。安倍首相が中途半端なマリオで登場したのには、ちょっと、賛否はあるところだが、おおむね、好評だったのかな。政治家が前面に出るのはどうかな、と思う人もいるでしょうが。あのマラソン銀メダルのエチオピアの選手を、土管を通して、安倍首相が日本に戻るときに、一緒に、日本に連れて行ってやるならいいと思うが。総じて、なかなか、粋な、東京紹介だったと思う。四年後に期待を待たせるのに効果があったと思う。

ところで、今書くかどうかのことだが、私が大学3年の10月、東京オリンピックが開催された。これにまつわって、忘れられない思い出がある。以前書いたかな、記憶がない。
大学三年の初めごろから、学芸学部の教育課程の女性を好きになっていた。石和のブドウ園の娘さんだった。一学年下、私は卓球部のキャプテンをしながら、書道部にも入っていて、そこで会った。そして、私の親友だったY君もその女性のもう一つ属していた合唱部の友達を好きになっていて、紹介しろよと、言われて紹介し、その後、愛宕山の彼女の家に遊びに行っていたようだった。どちらも、恋人と言えるまで状態ではなかった。しかし、四人で良い付き合いをしていたと思う、フォークダンス、学内体育大会、学園祭などの時には、開催委員会のメンバーになって、いい役割をしていた。一緒にいる時が、長かった。

夏休み、遊ぶ金がないし、夜勤の仕事があるというので、友人二人で、甲府市の南部にあるアイスクリーム清三会社で、紙で棒付きのアイスクリーム(チョコマロン)を包む仕事をやっていた。夜、6時から朝6時まで、一晩で、1200円位だった。当時、大卒初任給が2万円位だったから、アルバイトとしては良い給料だった。20日ほどやって、ちょっと割り増してもらって2万5千円程受け取った。その会社の経営者は、大学の先輩だったこともあって、な私大生にアルバイト賃金は、ちょっと多くしてくれていたようだった。下宿の家賃が畳一畳千円の時代でした。

その話と東京オリンピックと、何が関係あるの?夜勤明けで帰宅する途中、いつも、岡島の前を通る、その日、宝くじを売る場所に長い列ができていた。直ぐに、オリンピックの入場券を売り出すと分かった。開会式や閉会式などは無理として、国立競技場に,行って見たいと思った。第三コーナーの最上部、100m競争のスタート地点から対角の一番遠い場所、そこ辺りが500円だった。二人でそれぞれの彼女と四人で行きたいなということになり、私はたまたま千円を持っていた。彼は100円しかっていなかった。その当時、学生が食べる朝食は50円で腹いっぱい食べられたから、彼は、十分なお金を持っていたのでしたが、チケットを買うには足りない。私が行列に並び、彼は下宿へ行ってお金を持ってくると言って、消えてしまった。三十分後、彼は、戻ってきた。7時から売り出しで、7時半ごろ私たちの順番になった。私は千円を出し、二枚チケットを買った。彼、ポケットを探っている、ない、という。持ってきたはずだという。それでも、どこのポケットにもない。慌てていて、ポケットに入れるのが不完全だったのかもしれない。がっかり、意気消沈、急いで、お金を取りに行ってきたのに。彼は、買うことができなかったが、私は買った。彼には悪いが、これで、あとは、彼女を誘うだけだと、思った。続く!!!   
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渋滞で止まっている車のサイドミラーからの風景、前も対向車線も渋滞している。高校生の二人乗りが捕まっている。相場としては、この警察官が10万Rp(8百円くらい)受け取る。高校生だからもっと安いかもしれない。

(^_-)-☆子供の頃 [思い出]

 2751 安西橋の手前と安西橋の向こう側、安西五丁目と山崎だ。小学校のころ、この道は、真ん中の一車線の広さしかなく、舗装はしてあったと想うが、剥げていた部分の方が多く、ちょっと風が吹けば砂煙が上がっていた。車はほとんど走っていなかったので、アスファルトが残っている場所に座り込んで、眺めの釘と石で、埋まっている釘、入りがね、ねじ等を掘り出し、貯めて、屑鉄屋に持ち込んで小遣い稼ぎをしていた。アルミや銅(赤)や真鍮は高く売れた。リヤカーや大八車が行き交っていて、自転車の後ろにリヤカーを繋げて引っ張っている姿もあった。この通りを塞ぐようにしてラジオ体操をしたし、缶蹴り、水雷駆逐、Sチンなどの遊びをしていた。
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安倍川の土手まで500mくらいのところに住んでいて、安倍川には日常的に遊びに行っていて、泳ぎも川に放りこもれて覚えたし、魚釣りや石に下の魚を石をぶつけて取ったり、ぬかビンを仕掛けて取ったりして遊んでいた。時には、安西橋を渡って、大門川、藁科川の方まで遠征し、木枯らしの森付近で泳いだり魚を追いかけたり、ぼったいで魚を捕まえたり、鳥餅でチャッチャ(子供ウグイス)、目白などを捕まえたりしていた。船山にもよく行っていた。蝉やクワガタ、カブトムシは当たり前、アユなの魚やイナゴやドジョウ、蜂の幼虫は食用だった。

その内、砂や砂利の採掘が盛んになり、河原のあちらこちらに、採掘跡の広い深い穴(浅いと思って歩いていると突然深くなってしまっていた)が出来てしまっていて、その穴に落ちて亡くなった子がいて、なんとなく、安倍川で泳ぐことが禁止になってしまったように覚えている。

今の風景、状況からは、想像できないほど、川向う(山崎新田?羽鳥?)は、ど田舎だった。安西橋を渡って向こう側に行くのは冒険だった。大門川で蛍の大群に遭遇した時には、大感激したことを覚えている。安西橋の両岸の下には、昔はコジキと言われていた人たちが住んでいた。そのうちの一人、“ごんじい“に助けられた思い出は忘れられない。
 
 こんなことが原点だったから、インドネシアでの生活は全く苦にならないどころか、快適そのものだ。


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(^_-)-☆ルーツ [思い出]

 2624 父親が亡くなったとき、もう、二十年以上前になる、私がお墓を作った。富士川町に住む、いとこの内、本家の石材店以外は全員、本家のお墓(江戸時代からの墓標がある)の周りに、自分たちの親が亡くなった時にお墓を作った。だから、このお墓の周りは、太田家と彫られたお墓が沢山ある。本家が石材屋だから、静岡に引っ越しても夏休みには、毎年、富士川の橋のたもとの本家に遊びに来ていた。富士の方から国道一号線の橋を渡ると、国道は、その渡りきったところで急カーブを描いて左折している。左折しないで、認知症老人のごとく、真っ直ぐ行ってしまうと、太田石材店に突っ込む、そんなところにある。今でも、いとこがその石材店をやっている。信号がまだない時代、よく、太田石材店にトラックが突っ込んだという話は、聞いていた。
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 で、お墓を作るのは、簡単で、安い、お寺も先祖代々、子供のころから、そのお寺の周りの山で遊んでいたし、お寺の坊さんとも、仲が良かった。今は,年に一回か二回しか行かないし、父母だけしか入っていないお墓に、次に入るのは私である。準備は万端である。この地より出でて、この地に戻るはずである。
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 この鉄のパイプはなにか分かりますよね。日本軽金属蒲原工場の第二発電所の取水パイプです。私が生まれた年に利用され始めたという。私の父親は重電の専門家で、その仕事に携わっていた。ボーキサイトから最後に電気分解、アルミニウムの抽出に携わっていたのでした。富士川の芝川辺りの第一発電所からの放水を使っている。二三歳のころ、会社の運動会に行ったことを覚えている。発電所についても、分からないながらも説明をされていた。四歳の時に、どういう分けか、静岡に引っ越した。なぜ、日軽金を止めて、静岡で荒物屋を始めたのか、説明を聞いていない。サラリーマンには向いていないと思うが、何故か、分からない。商人にも、向いていないと思うのだが。

 孫にこんな話をし始めている自分に気付く。
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(^_-)-☆遠い記憶 [思い出]

 2620 昨日書いたプロ野球選手の円陣の話、それに関して、世界の王会長の談話を読んだ。さすが、王氏、いいことをおっしゃる。スポーツマンだね。

 で、何も関係ないが、思い出をちょっと書く、甲子園春の選抜で優勝した王選手、ピッチャーで四番だった。中学の時、家の側の静商(セイショウ)の野球選手がよく、田所選手や興津選手などがいて、家の前までランニングをしてきた関係で、小学校の時からファンだった。高校は静商へ行って野球をやりたいと思っていた。当時、静高(静中から城内高校)と静商が甲子園へ殆ど交代で出ていたし、定期船は“静岡の早慶戦”と言われていて、人気があって、外野まで満員だった。多分、私が中学の二年の時だったと思う。招待試合として早実が来て、静高と静商とダブルヘッダーの試合が草薙球場であった。私は父親と一緒に見に行った。両校とも負けてしまったと思う、王選手さすが甲子園優勝投手だと思った。

しかし、そのときは野球をあきらめて、卓球をやっていた。そして、中学からは静高の方が近かったし、静高の卓球部は、全国大会にもよく出ていたので、二年の時には、まだ、駿府城内の城内高校へ教えてもらいに通ったし、三年の夏までは、新しい、現在の場所の静高の体育館へ練習に行っていた。そして、静高に入っても、当たり前のように、卓球部に入った。野球は、二年の時、私の中学の同級生をはじめクラスの仲間が甲子園夏の大会で準優勝をした。彼らと一緒に野球などできるはずがない。彼らのスピードといい、飛距離といい、とてもじゃないが、野球などやらなくてよかったと思った。同じ体育館で練習をしていたバスケットもインターハイで優勝していた。私たち卓球部と言えば、静岡の中部大会で準優勝止まりだった。
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静岡地方気象台の観測用ソメイヨシノはまだかもしれないが、ここの染井吉野は、五つの花どころか、一分咲きのようだ。
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 トンネル内の火災があったばかり、この先1kmほどにトンネルがある。前方工事渋滞とかで、左車線一車線になろうとしている。ちょっと、緊張する。
  

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(^_-)-☆二回目のプール [思い出]

 2398 思い出の夏の一コマ。そのつもりで水泳パンツを持っていったので、孫たちと一緒にプールに入った。一周、200mほどある水が流れるプール。初めてではないので、知ってはいるが、浅い。1mほどしかない。顔を上げたままの平泳ぎは足がついてしまう。顔をつけながら泳ぐしかないし、仰向けになって泳げば、周りが見えないから、他人にぶっつかってしまうし、クロールなどやれば、それこそ、一かきで、前の人にぶっつかる。要するに、泳げない。歩くしかない。泳ぎたいなら、流れるプールでなく、普通のプールに行くしかない。という、大浜公園プールでした。
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このプールは私が子供の頃にも既にあった。友達が偶にいっていったようだが、学区からは、自転車一時間掛かったので、私はいったことがなかった。もっぱら、学校のプールへ行くか、ほとんどは、安倍川へ行っていた。土手の構造が、ところどころに、流れを弱めるためだろうか、流れと直角に土手の出っ張りがあった。その下流側に,深い淀みがあった。そこが、プール代わりになり、子供が集まっていた。土手から飛び込んだ、競争をしたり、鬼ごっこをしたりて遊び、泳げない子は、年上の人につかまえられて、放りこまれたりもしていた。私も小さい頃、上級生に、両氏と両腕をつかまれて、振られて、縁に放りこまれたものでした。そんな遊びをしているうちに、泳ぎが、何も、意識しないで、できるようになった。

また、今は、取っていないと思うが、砂利の採集が盛んに行われていた。パワーシャベルで深く掘っていたので,その跡は、絶対、足がたたない深いプールのようになっていた。格好の水泳場になっていた。

海水浴に行くなら、三保ノ松原で知られた、三保海岸に行くか、袖師海岸だった。袖師には東海道線の駅が、夏だけ使われていた。清水と興津の間だった。今は、ないでしょう。というより、袖師海岸自体が、埋め立てによって、清水のコンテナ港になってしまっている。駅から海岸までの道の両側に食堂や土産物屋や海で使う道具らなどが並んでいたし、海岸には、多くの海の家があって、大いに賑わっていた。最後に行ったのは、高校の時の遠泳だった。対岸の三保まで泳いだ。真夏の世の夢である。

これらのことが、いま、良く行くパンガンダランに夢は繋がっている。
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ヲータースライダーのチケットの自動販売機。
 

タグ: 水泳 思い出
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