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(^_-)-☆チャッペデー [人]

 3717 Lima desa di Sukanagara Cianjur dilanda banjir dan longsor
Jumat, 22 Maret 2019 18:03 WIB チアンジュールという西部ジャワの真ん中の山岳地帯、チカランやブカシ辺りから天気のいい日に南に見える山、グデ山の東麓に位置する。ジャカルタから南のプンチャックを越えても行けるし、ボゴールを通り過ぎて、スカブミを通っても行けるし、リッポチカランからひたすら南下しても行ける。観光スポットが多い地帯なので、休日の渋滞は当たり前、今回の洪水と崖崩れ、道路の崩落で、明日は大渋滞になるでしょう。Diki君の家がチアンジュール、家族が住んでいて、本人は単身赴任だ。渋滞だよ、まいったな、と言いながら、今日は、夕方5時ごろには、家に向かった。
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http://otaenplaext.net/welcome27.html“こんな人シリーズ”です。53歳にして、会社の社長から、一技術指導者として、海外、インドネシアで日系企業の進出の一部門の手伝いでした。日本では、その会社の創立当時から製品の提供をしていた。1996年8月だ。自分の会社を作り、自分の技術だけで、会社を運営し、従業員を育てた。会社で仕事をしている時間は飛びぬけて長時間だった。率先して、見本を見せた。怒ることは全くなかった。面接や適性テストなどで性格や器用さや積極性を確認し、私が納得した人だけを仲間にしたから、当然だと思うが。

ところが、インドネシアの会社を手伝い始めて、直ぐに、様々な人たちの行動というか、言動というか、人間関係というか、非常に、滅茶苦茶幅が広い人間の特性に触れることになった。社長で自分が思うようにしか何事もしていなかったし、人からは、期待されることはあっても、頼られることがっても、邪魔にされたり、文句を言われたり、仕事はしたく無い、それは、やりたくないなどと言われたことは全くなかったが、一アドバイザーという立場になると、どうか、とにかく、凄い人たちがうごめいているのが現実世界なのかなと思わされた。このことは、今の会社で仕事をする前、2016年ごろまで20年間続いた。
今は、日系ではないから、日本からの派遣日本人はいないから、こんな人シリーズに書くような人はいない。

眠れない人は、睡眠薬代わりに、読みだしてみてください。身の回りにこんな人、いますか。あなた自身は如何ですか、面白いでしょうかね。私に取っては、たまったものではない、という印象が強かった。
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(^_-)-☆押出成形との出会いDTsunami [人]

 3627 この期間での印象的な人との出会い。勿論、多くの人に出会って、その人たちから、大なり小なり、参考なり、反面教師なり、その後の私の考え方や行動に影響を与えられたが、このサラリーマン時代に、そして、その後にも、継続して、私に大きな影響を与えてくれた方について触れる。
先ず、塩崎さん 7歳上、会社に入る前は、自衛隊習志野の空挺部隊に属していた。私が入社したときには、押出部門の係長補佐、そして、労働組合の初代組合長をしていた。製造部門では、東レなど親会社から出向で来ていた人ではなく、現地採用の中では最年長だった。技術的もすでにある設備を使って一番、早く製品を作ることができた。条件を掴むための勘が優れていた。ボルトの締め方とか溶融樹脂の掴み方とか、仕事ぶりを見て大いに真似をした。そうしているうちに、塩崎さんは、私を後継者にしようと思うようになったと思う。入社半年後の組合役員改正の時に、教宣部長という訳の分からない執行部に入れられてしまった。無茶苦茶な仕事の始まりでした。これは、太田化工から抜けるまで30年続く始まりでした。

私を後継者としたつもりで、自分は、富士プラスチック精工として、会社を興した。
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0067.html

もう一方、北川工業の創業社長、北川弘二さん、こちらは、http://otaenplaext.net/newpage305.htmlここで、紹介をしている。私が独立してからも、目を掛けていただき、挙句にインドネシアのKITAGAWAを立ち上げるときに、私が東南アジアへ技術を伝えに行きたいといっていることを知って、誘ってくれた。
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これは、インドネシアへ行ってからの出会いの話。1996年の12月パサラヤブロックMで店員をしていて、私に対応したユニーさん、ユニフェスタス ナショナル(UN)の日本文学科で勉強しているといい、日本語で話しかけてきたことをきっかけに、静岡の国際ことば学院への留学の保証人になった。20年前の話、太田化工でのアルバイトで知り合った従業員と結婚して、興津に住んでいる。久しぶりに、静岡の駅ビルで会うことにした。小学2年と4年の子供と一緒、私がお爺ちゃんのようなもの。何を食べたいか聞くと、オムレツが良いといって、パルシェ6階のレストランに連れていかれた。結婚してからインドネシアに一度も帰っていないという。しかし、普通に生活している様子何よりだと思う。
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(^_-)-☆人って! [人]

 3486 取り巻きが、改めるべきだというべきだ、だから、取り巻きの責任だ、会長自身は、やれとか、持ってこいなどといっていない、という評論家風の人が多い。変でしょ。私が、すぐ思うことは、私なら、用意されているものが特別だったと思えば、次から、無駄なことだから、自分に対して特別扱いをしないようにと言うでしょう。しかし、会長は、準備されたものが、頼んだものではない、と言うだけで、特別すぎるとは言っていないし、今後は、これほどのものを辞退するとは言っていない。それは、彼が要求した取りになるよう願っていて、それが満たされていること確認しているからだ。そして、すべての人が、自分にひれ伏していることを。それによって、確認しているからだ。彼は、満足していたのでしょう。自分の発言が恐れられているという意識は毛頭ないのでしょう。こういうことを、評論家、解説者は、指摘していない。

彼の言っていることのほとんどは、矛盾した居ると、まったく関係ない私でも、思う。突然入院して、インターハイの開会式を欠席したが、暴力団に脅かされたからと言って、インタビューに応じた。脅かされなければ、病院に寝続けていたのでしょうか。脅かされたって、止める理由は全くないと言い、こんな騒ぎになっても、会長に君臨し続けることができると思っているのでしょうか、固執したいのでしょうか。日大事件もそうだが、選手優先ではなく、自分優先なのでしょうね。文化省、スポーツ庁、ボクシング協会?すべての方々にとって、やっぱり、厄介な人でしたね。第三者委員会とか何とかではなく、鈴木スポーツ庁長官は即刻、自宅謹慎にさせて、暫定会長を指名すべきだと思う。その後、すべてを明らかにするよう、調査をすればいい。

孫会社の社長夫婦と夕食を共にする。何日か前に、工場を覗きに行って、彼がちょっと戸迄っていたことを、アドバイスして、解消させたお礼だったと解釈している。POMのパイプの製造だった。彼は、まだ、43歳、創業4年目になる。まだ、まだ、これからだ。

この食事の中で、ずっと以前、私がまだ太田化工の社長でいたころ、関係があった会社の社長さんが既に亡くなっていることを聞かされた。その中に、二人、私がやっていた仕事、私が作っていた製品を美味しいと思ったのでしょう。良く、工場を覗きこんでいて、何時の間にやら、同じような装置を、私が考え出して、その装置を作ってもらった装置屋に作らせてしまって、その製品を作り始め、私の客先に売り込みに行ってしまった。一社はエッジング、灯油での冷却、形決め装置、もう一社は、スパイラルチューブの定尺カットまでの装置、違う装置会社だったが、二社とも、私がアイディア通りに作ってもらった装置、私に断りなしに、作って提供した。見っともないことをするな、その後、その装置屋には、何も頼まなくなった。
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http://otaenplaext.net/newpage305.html
http://otaenplaext.net/newpage312.html
そして、エッジングを作ってしまった会社は、グロメットを作ることができない、スパイラルを作ってしまった会社は、LDPEではできるが、N6ではできない、そこで、両者とも、その後、それらの製品を作りたいが、装置屋に聞いてもできるはずがない、私に聞きに来た。どちらも、私より、7~8歳年上の社長さんだった。私の客先だったが、自分で作り始め、その他の私の客先に売り込みに行って、一部を奪ってしまった。その人たちが、私に、できない製品ができるようになるまで技術指導してほしいと頼み込んできた。
凄いな、商売というものはそう迄して、やるのかなと、あきれたと同時に、気の毒に思った。25年ほど前の話だ。その方たちも今はいない。息子さんが後を継いで会社は継続しているという。真似したそれらの製品を作っているらしいが、どこへ売っているのか、目立って邪魔にはないないという。それ以外のものができないからだ。
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20年以上使っているバゲジ、大分、ほころびが来ているがまだ使える。リックサックは、15年ほど使っていたものが、ほぼ使えなくなっているので、この中に、今までのリックサックを入れることができるちょっと大きめのものを買った、1200円。二重にして使おうと思っている。
タグ: 気の毒 固執
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(^_-)-☆現状打破 [人]

 3411 ブカプアサ ベルサマをリッポチカランのシティーヲークのソラリアで、久しぶりに会った、20年以上前変えあの知り合いで、私の生徒の一人でもあるディキー君とだった。ちょっと触れたが、今の会社で私に代わる人を模索していたが、たまたま、彼が、自身の現状に満足していたくないらしくて、環境を買えたといっているという話があり、電話で話したよころ、というと、かなり、その気持ちがはっきりしているので、会って、詳しい話を話してみようと思った。

彼はチアンジュール、ボゴールの南東、スカブミの東、バンドゥンの南西、の出身。バンドゥン郊外のパダジャララン大学、日本語学科の出身、そして、静岡で日本語学校に2年間、いたことがあり、その時に、アルバイトで太田化工で仕事をしたことがあった。その時の縁で、彼がインドネシアに戻ったときに就職先の相談をされ、キタガワで押出の仕事を勧め、私の弟子のようなものになった。

その後、いろいろあって、今の会社の押出部門のトップになっている。その部門に日本人はいない。世間話から、徐々に、本題に入ってゆくと、その会社、プラスチックの成型とその関連のをしている、押出は小さい部門で、%90%以上は射出関連、トップからそれらの部門に日本人が責任者としているが、押出には日本人はいない。要するに、新しい仕事を取れない、現状維持だけで、自分の今の仕事は、やることがない上に、仕事を知る日本人がいないから、現状を理解してもらえない。いても意味がないから環境を替えたいという。

技術者として、気持ちは十分わかる。今後の彼の行動について、私の希望を話しておいた。どうなることやら、彼の決心は堅いようななおで、何とか、添えるように手伝いたいと思う。レバラン休暇の前にはっきりする。
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ブカプアサまで一時間ほど前の私が住む田舎町のメイン通りの様子、道の両側に、手つくりの飲み物を売る店が並んでいる、それらを買う人が群がっている。殆どの家庭では自分で作るより、買う人が多い。
タグ:不満 希望 打破
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(^_-)-☆そんなこと、 [人]

 3361 グリーンが空くのを待っている。キャディーと日傘。ピンクのロータスは昼前に閉じてしまうが、白紫は、何日も閉じることなく少しづつ大ききなり、ここの花は最大15cmくらいになる時がある。南の島の天国が近いこと感じる。
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その気になる人の続き、レストランの前の車のなかで、待ったいると、ルコに入ったと聞いてから30分後に、レストランへ入って行ったのを見た。私がいないことが直ぐわかるはず。着いたよという電話がかかってくるのを待っていた。意向に掛かってこない、5分後に、私も入った。カウンターに向かって、何やら、注文していた。遅かったね、そうしたの、と聞いたら、ここの場所が分からなくなってしまった。何人かに聞いたが、インドネシア人、ここの事を知らない、といわれた。という。やはり変。

どこの会社の誰がどうしたの、といった話ばかりだったが、自分の話になると、今の会社、辞めたい、どこか、太田さん紹介してとなった。専門が違うから何もできない、社長から、5Sだけでいいから、やってほしいといわれ、それまで、酷かったが、毎日、5Sだけをして、会社の中はきれいになったよ。でも、今は、その仕事がなくなってやることが無くなった。女性事務員、お局さんの目線が冷たくなった。だから、止めたい。そういわれたって、こっちじゃ、どうにもならない。それこそ、それらの業界との付き合いはないのだから。とにかく頼むよと言われて分かれた。

そして、月曜日の夕方、電話がかかってきた。首になった。今月いっぱいで、終わりといわれたという。明日から出社しなくていいといわれたという。そもそも、誰の紹介で、自分の専門外の仕事の会社に入ってしまったの、から、変だ。

そして、火曜日に、ある人にも頼もうと思って、電話をしているが、鳴っているのに出ないから、太田さん、そのある人のこと知っていたよね。電話番号が間違っているかもしれないから、教えてくれない?という。私は、そのある人に電話をし、番号が正しいことを確認してから、その人に約束通りメールで、番号を教えた。

それから、一時間後に、その人から、太田さん、番号分かった?といってきた。おいおい、メールで、送ったよ、確認して。で終わった。すると、今度は、そのある人から電話で、その人からの電話がまだ来ないよ。どうしたのかな。だった。ある人から、電話をしてみるから、その人の番号を教えてというので、教えた。

その30分後、あの人から、また、電話。電話をして、その人は、出たという。でも、こちらの名前を言っても黙って、話をしない、何回か、あの人自身の名前を言ってみたが、電話は聞いているようだが、話をしないという。だから、切ったという。どうなっているの太田さん、その人、変だよね、だった。

水曜日になって、朝、もう、いい加減にしてよ、と思っていたその人から、また、あの人の電話番号、もう一度、教えてといってきた。SMSも確認すればわかるでしょ、といってやった。あっそうか、SMS開いて見ていなかった。といった。どうなっているの、昨日のメールもSMSも見ていなかった。どうして、見るんだっけ?などと、口走っていた。

そして、その人から、昨日のゴルフをしている最中に電話が入った。夕方の便で日本に帰るという。あの人と話をしたの?と聞いたら、電話が繋がって話をしたという。そして、就職先の紹介を頼んだが、あの人、元気がないね、あの人も、コロコロ。かえているから、知っていると思ったが、体の具合が悪いから、間もなく、一時帰国をするらしくて、紹介どころじゃないみたい。ということで、14日に戻るから、仕事、捜しておいてよ。私は、あなたの仕事、今、どこも、景気が悪いから、期待されても困るよと言ってはおいたが、聞いていないようだ。
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(^_-)-☆恩師宅訪問 [人]

 3194 次は、中学の同級会へのアプローチの一つ、担任だった先生宅へのご挨拶だった。何年ぶりだろうか、インドネシアへ行っている期間中、一度だけ、私も幹事の一人になって、学年会を催したことがあった。それが、15年ほど前だったと思う。全学年11クラスのほとんどの先生、多分、10人出席されたと思う、各クラス、平均20名合計200人以上の催しだった。その時、私のクラスも20人以上参加し、先生も見えられ、二次会では、会場を変えて、クラス会になった。
その後、学年会は次に主催する組が決まっていたはずが、開かれないままだし、クラス会も私がほとんど日本にいないから、他の人が主になってやることもなかった。

私たちに担任だった先生は、11歳とし上、85歳でした。見かけもそうだが、私たちとあまり変わらない年齢に見えるし、言葉も、表現もはっきりしているし、記憶も衰えていない。75まで、北高校で教鞭をとっていたとか、その後は、町の役員や老人会の幹事、市の手伝いとか、やることが、今でも、たくさんあるとか。やはり、動き続けている、そして、病気らしい病気のも掛かっていないことが、普通に元気でいられるのだと、ご本人も分析していた。お話、私にも、参考になった。

趣味は多かったと記憶している。中学一年間だけの接触だったが、昼休みに、曲の解説をして、クラシックの音楽を流していたのも先生だった。自宅から持ってきたものだった。カメラも当時では、高級な大きな一眼レフを持っていて、私たちを撮影していたことも覚えている。ちょっと、家庭が経済的に恵まれている先生だなと思っていた。当時、静岡では、ちょっと、有名な、洋裁学校の息子さんだったことを、卒業してから知った。今回、初めて、応接間に通されたが、書物とLPとCDのコレクションで溢れかえっていた。なるほどと思う。

三時間近く、とりとめのない話をし、同級会の確認をして、お宅を後にした。

先生の話によると、当時のほかの10人の同学年担任だった先生は、すべて、お亡くなりになっていた。
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静岡の街の東側、東静岡駅の東に行ったが、コンテナターミナルになっていた。大型のショッピングモール?の脇を通ったが、出入りの車と近くの講堂に出る信号で、思いがけない大渋滞になっていて、これも、びっくり。私にとっては、この風景、新鮮に映った。今日も雨だった。
タグ:元気 活動 恩師
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(^_-)-☆ちょっと長い話 [人]

 3143 10年以上前の本当にあったこと。 
某有名私立大学の理工学部出身の青年、25歳。本社勤務暦3年の将来有望な期待される青年らしい。中学校の時から野球をやっていたと言うことで体もいいし腕力も背筋力もありそう。ゴルフも太田さんには、悪いけれど、250mは軽いですよ、と、言っていて、なるほど、実際に軽々と私より100m先に飛ばす。

現場で金型の解体の指導を始めた。順番にこうして、ああして、これを緩め、これをはずしてから、これを緩める、などと、しゃべりながら私が作業を進める。ご本人さん、頷くでもなく、手伝おうとするでもなく、メモをするでもなく、腕を後ろに組んでみている。その内、ボルトが硬くて外れない物に出会った。私がパイプやパンマーを使って、緩めようとしたが、完全に焼きついているか、傷が食い込んでしまっているかで、ビクともしない、私の力ではどうしようもなかった。また、力任せにやって、ボルトをちぎってしまっては、後始末が面倒になるなどとも話した。彼はそれでも、手出しをしようとしない、見ているのか、眺めているのか、立っているだけだった。 ちょっと、力を貸して、と、頼んだら、疲れやすいから、出来ません、と、言った。「こういう仕事も、自分でやらなければならないときが来るよ」と言ったら、「私は、力仕事はしません」ときた。
私は、最期の手段で、全体を外し、焼き場に持っていって、ボルトごと金型を真っ赤に焼いてやわらかくし、ボルトを水で冷やして、収縮させて、万力に加えてボルトを外した。ご本人さん、感心するでもなく、納得するでもなく、本当に無関心な態度で、眺めていただけ。こんなやつもいるのかと、開いた口がふさがらなかった。私の仕事を冷ややかな目で眺めながら、何を考えているのだろうか。インドネシアに来て、どんなことをしようとしているのでしょうか、自信有りげに何もしないので、不気味である。

 世の中にはすごい人もいるもので、何が、自信ある態度の裏づけなのでしょうか。25歳や30歳ごろに、60歳の目上の人、私に、仕事をしたくないと言うのだから、たいした者だと思う。当時のY君のことだ。現場の仕事をしたがらない。私が教える仕事は頭で考えるよりも自分で積極的に手を出して、体で覚えるチャンスを一杯つくることだが、それを、最初に言って聞かせたのだが、本人、一向に現場へ出ようともしない。「太田さん、何々の基準書はありますかとか標準書は整っていますか、あったら、見せてください」と言う。監査に来たようなことをいう。こちらは、「あるけれど、目安であって、自分で体験して、自分で書くくらいにならないとだめだよ」と言って聞かせる。それでも、インドネシア人スタッフにそれらの書類を要求して手に入れたようだ。しかし、インドネシア語である。全く理解できない。直ぐに読むことをあきらめて、返してしまった。さすがに、日本語の物を求めてこなかった。どうするつもりだったのでしょうか。もしなければ、私に作るように要求するつもりだったのでしょうか。監査員のつもりだったのでしょうか。とにかく、事務所にいないで、現場で皆と話をしたり仕事をしたりしなさい。其れが、仕事も言葉も速く覚える最良の方法だよ。と、言って聞かせた。
その後はどうするかと思っていたら、現場へ出ることは出た。しかし、現場の椅子に座って、周りを眺めている、みんなの仕事を見ているのかいないのか、目的は何なのか、周りの人が、迷惑しているのが分かる。それでも、じっとしている。

何しにインドネシアへ来たのか聞いてみた。「行けって言われたから」と言う返事。これから、どうするつもりか、聞いてみた。「別に、何もする気はない」と、言ってくれた。「それじゃ、いてもらっても困るから、帰れば」といって、それっきり、後は話しかけない。ご本人さん、社長と工場長の間にある、お偉いさん、来客時だけ使う真ん中の大きな机を前にして、背もたれの大きな椅子に踏ん反り返って、事務所全体を眺めている。私は、その事務所の隅っこの窓際に一人陣取っているのであたかも、彼が威張った馬鹿上司で、私は、ふきだまりに追いやられたような雰囲気。誰がみてもそう見えるだろう。
其れが、彼が帰るまで二週間続いた。その間、一言も口をきかなかった。私の技術を覚える為に派遣されてきたとばっかり思っていたし、そう、紹介されてから、その気になっていたが、彼と会って一週間後には、こりゃどうにもならないなと思った。一ヵ月半で日本へ帰っていった。恐れ入りました。

この青年、その時の社長は踏ん反り返る人ではなかったが、今の社長は、その青年が帰る前、二週間踏ん反り返っていたと同じスタイルで踏ん反り返って三年が過ぎた。従業員の誰からも、あの人は仕事嫌いで、会社にあまり出てこない。いるときはいつもそっくり返っていると言われているが、本人には伝わっていないようだ。
そして、以前の社長のときは、踏ん反り返っていなかった工場長が,箍が外れたのでしょう、今の社長になったら、一緒に踏ん反り返っている。私を、パワハラをしたコンビだ。時にはいびきをかいて寝てしまっている。すごい状態で、あきれて、開いた口がふさがらない。目をさまして、書類をながめて、誰かを呼んで、叱り付け始める。その変身に笑っちゃう。
件の一見スポーツマン風で、体育系、現場の仕事を率先して遣りそうな青年は、大変用心深いというか、心配性と言うか、気が小さいと言うか、ジャカルタ中心街のガトゥットゥスブロト通りが3イン1で二人きりだったので、高速道路から其の通りに出ることが出来なかった。高速道路の脇で降ろして、其のとおりを横切らせて、彼のアパートまで帰らせようと車を路肩に駐車した。そうすることを前もって話しておいた。
だが、其の場所に来て、自分のアパートまで三車線のガトゥットゥスブロト通りを横切らなければならないことを見て知った。車は信号の関係で断続的に込んでいる時と空いている時が二三分おきに来る。彼は「いやだ、こんなことをさせるのですか」と、怒ったように、また、懇願するように、降りないと言い出した。しょうがないから、3イン1が終わる19:00まで、約二時間ジャカルタの南部の方を案内して時間を潰してもどった。

おかげで、私が彼を降ろして家に着いたのが21:00を回っていた。私が、無理を言ったのかもしれませんが、以前にジャカルタの人を何人もそういう方法で降ろしたことがあるので、当たり前に、彼にもそうしてもらおうと思っただけだったが、いろいろな人がいる物だと感じさせられた。

この中の人々、今は、どうしているのでしょうか。三人とも、あの時の会社にはいないと思う。
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パンガンダランのチャガールアラム、ブンガバンカイがありますね。一つは蕾です。分かりやすいほうです。匂いがかすかにして来ます。
  

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(^_-)-☆ワ~~オ!! [人]

 3114 これ、現実か?50年以上前の出来事の再現だ。こんな、奇跡のような偶然があるのだろうか。22歳の時にあったことが、73歳直前で、繰り返された。21日に彼女の誕生日のことを書いたばかりだったが。
こんなところで、こんなタイミングで、声を掛けられた。エッ、誰?通りがかりの小さな個人病院の駐車場のバイクに乗ろうとしている女性からだった。声を掛けられる心当たりが全くない。私は歩いて、歯医者へ行き、その帰り道だった。その前に、100円ショップで買い物をした。あたかも、時間調整したかのような。そして、たまたま、その時間にそこを通っただけだった。
 何秒か、誰?と思い見つめていたら、被っていたヘルメットを取り始めた。顎から口、頬が見えてきた。まだ、誰なのか分からない。エッ、まさか!! 目が現れた。エっ、びっくり、かのペースメーカーの人、中学の同級生だった。駅のホームではないが、あの、五輪真弓の歌、”雨宿り“の世界が再現された。

 僕だっていうこと、よくわかったね、と言ったら、すぐわかったよ、変わっていないね、と。私の方も、ヘルメットを取って、見えた顔は、10何年か前にあった時と全く同じだったし、中学生の時の面影そのものだった。
こんなことってあるんだね、でも、太田君とだけだよ、他の人と、町で、偶然会って、声を掛け合うことはないという。こちらも、同じだ。

 突然の出会いで、何を話したらいいかわからない。昨日、下駄を買いに行った話をしたら、ブログを読んでいて知っていた。彼女の方は、周りで亡くなる人が多くなった。誰々も亡くなったよ、同級会をしようよ、という話。

そして、彼女、身体障碍者の手伝いをすり仕事中だったので、電話番号を確認しあって、近いうちに、会いましょう、同級会のこともあるし、ということで、別れた。これも、あの時と同じだった。電話するよ、じゃあ、と言いながら、バイクで去っていった。呆気に取られて後姿を見ていた。行ってしまってから、後姿でも、写真を撮ればよかったと思った。かかった病院と買い物をした店を撮ったのに、まったく、思いつかなかった。
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この写真を撮った一分後のことだった。
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こんな花のようだった。


 今日から、生涯学習センター(以前、長田公民館)の囲碁同好会へ行くことにしていて、久しぶりに行ってきた。なんだか、知らないが、うまい人だということにされて、二段だという人が、3子を置いて、お願いしますということになった。何十年もほとんど打っていないから、1勝2敗だった。半年、会員になることにした。ただし、碁を打っていても、午前中の、嘘のような本当の出来事で、思考が中途半端になっていて、うわの空で打っていた。
  

(^_-)-☆素直な二人 [人]

 3064 昨日の続き、インドネシア人二人でやってきた。メールで色々書いてきた日本人は来なかった。来ていただかなくて良かったと思う。また、適当なことを言われても、いちいち突っつくのも嫌だし、困惑するだけだから。商社とメーカーのジャカルタ事務所の人だった。日本人と同じ営業の人間は、半年ほど前に会っていて、お互いに覚えていた。日本人が来る前には彼と話はスムーズに言っていたが、日本人gは来てからは、彼とは、話をしなくなったというか、できなくなっていた。彼も遠慮するようになったと思うし、日本人も、彼に任せればいいのに、存在を前面に出そうとしたのでしょう。

コベストロのマスター レベルの技術者と日本人が言っていた人は、確かに技術営業らしいが、私からすると、一般的な樹脂の知識はイマイチだし、射出に関しても、ほとんど知らないし、押出に関しては、まったく知らない、ということが、話して数分で分かった。それで、ダメだというわけではない。そんなものなのだからだ。

そこで、話は、原料のプロパティの違いについて、話してやった。このPCに限らず、また、同じメーカーの同じ事業所で作られた、同じ品番の原料でも、ロットによって、流れ特性は微妙に違う、その違いの幅は、大小有って、温度条件だけでいうなら、20度以上変えるときもある、それが、押出用原料で、それを、いちいち、クレームの対象にしていたら、いつまでも製品はできない。私たちは、それを、使いこなさなければ、仕事にならないと説明し、それを前提に、今回の原料は、同じ原料名で品番も同じだが、明らかに流れ特性、原料の噛みこみ状態が違っていて、かなりの範囲の条件を変えてみたが、良品はできなかった。そこで、今は、客先の許しを得て、装置の改造を進めているところで、それを待って来月初めに再挑戦することにしていると説明した。原料にクレームをつけているのではないとも、付け加えた。

そして、原料の原産地が違っていたと、日本人に話したら、彼は、絶対にそんなことはないと言い張っていて、話は平行線、だったが、どうだろうか、タイのコベストロで作ったものをこの商社が売る可能性があるのではないかと、彼に聞いた。彼曰く、可能性はある、タイから出荷したこともあったという。袋の模様は同じだが、色違いは何種類かあったという。そのうちの一つが、以前、こちらに、届けられたかもしれないという。

日本人が、認めなかったことを、彼が、技術指指導、共同開発と言って送り込んだ人があっさり正直なことを言ってくれた。当然、考えられることを、否定し、私たちの技術不足とみて、技術者を送る、まったく、的外れの考えだし、行動だ。私が、新しく着た原料は、産地が違うよと、言ってやった時に、何を思ったのか、「われわれは、産地偽造などコンプライアンスの点からもあり得ない」と、強調してきた。私は、産地偽造などと一言も言っていなかった。何も、クレームをつけてもいなかった。むしろ、産地を正直に袋に書いてあったから、指摘しただけだった。

彼らに技術的な話をしても、仕方がないから、ほどほどにして、タイからの原料をサンプルとして25Kgいただきたいとお願いした。快く、承知してくれた。改良した押出機を使うから、違いが分からないかも知れないが、多少は、扱いが違うかもしれないから。

インドネシアでこの原料を売っている先は今まであったのかと聞いたら、ないという、未だに、PCのプルファイルを手掛ける会社は、他に、ないことを確認した。最近、日系商社とEVAについて、話をしたが、ついでに、メップやテイジンの押出用のPCを扱ったことがあるかと聞いたら、以前、太田さんに売ったことがるだけだと言っていた。
 ミーティングの最後に商社の人に、大変重要な、ある事お願いした。このことは、私が言っていたと、日本人に言わないでほしいと、付け加えた。彼らは、満足して帰っていった。


プアサもほぼ中間、会社の雰囲気は、皆さん、プアサを守っている。女性も全員、プアサをしている、と、思う。で、私としては、仕方がないから、プアサをしている振りをしている。
口が乾くと喋ることが難しくなる、日本人の来客があった時には、ほっとする。飲み物を出してもらえるからだ。それでは、会社の中にいるときに、どうしているかというと、飲み物はボトルで、引き出しの中に用意して有って、事務所に誰もいなくなった時に一口飲む。また、一人で、車で外出する機会を作るようにし、会社から出れば、飲めるだけ飲める。そして、昼時には、やはり、外出というか、家に戻って、簡単な食事もしている。

会社の人達には一応、私もプアサをしているよという風に見せていると思う。高齢者はプアサを免除されていると、ムハンマドさん、アッラーさんは、言っているようだが、皆さんがいる前で、飲んだり食べたりできない雰囲気だ。
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昨日MM2100のルコに行ったときに、インドネシアンレストランで食べた、ナシチャプチャイ。プアサの時には、どこのレストランも、中が見えないように、中を暗くするか、カーテンのようなものを垂らす。
 

(^_-)-☆人は様々 [人]

 3009 Good Friday祭日だが、クリスチャンではない皆さんは出勤、レバラン休暇に振り替える。私は、午前中ゴルフでした。
うまくいっていない仕事があって、19時過ぎまで会社にいた。結局、うまくいかなかった。金型からの樹脂の出方が変、何が原因かわからなかったが、最終的にわかって、それでも時間がないので、月曜日にとした。
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夕方、工場から。目の下は、釣り堀になっている。
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65歳だという。この養殖池の持ち主だ。餌をやりに来ていた。カンビン(山羊)の放牧もしていた。

http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage0013.htmlもう、10年以上前の話か。ひどい人はひどいね。直らないね。
http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage001.htmlこんな人シリーズ、日本で社長時代には、想像できなかった、非常に興味深い人たちが多い世界を知った。なお、この後に、何人か追加する予定がある。

 会社へ行ったら、こんな話があった。インドネシアらしい話だと思う。経理と図面書きの、そのことでは、結構、できると思っている人たちだ。
 昨日の朝,出勤したときから、事務所内のWi-Fiが、ネットなしの状態になった。別に、それの担当者が決まっているわけではないが、設置したときに、立ち会って、パスワードを聞いた人、それが。図面書きの人だったので、なんとなく、彼が、その責任者のようなものになっていた。事務所にいる時間が長いのも彼と経理だったので、二人に、使えないことを伝えた。それ以前に、使えないことを彼らも知っていた。
 わかっていても、彼らは、受信発信器を何気なくいじっているだけで、導入した会社に問い合わせをしようとしないので、状況を話して、直してもらいなさい、と。頼んだ。

 私が席を外した時に、渋々、電話して聞いたらしい。一時間ほどして、私が戻った時に、彼ら、何も言わない。まだ、Wi-Fiが使えない。彼らに聞いてみたら、電話をしたという。原因は、と聞いたら、ガングー(一般的には邪魔という意味)だという。それで、彼らは、納得しているらしいのが不思議、私には、電話をしなさいと言ったのに、その結果の報告、電話したという話もないし、原因に関しての報告もないのも不思議だ。その日、一日中、使えなかった。

 今日、午後、会社へ行っても矢張り、使えない。どうなっているの?と聞いたら、やはり、ガングーだという、この地域全体にガングーがあるという。SMSが入っているという。昨日と同じだ。彼らは、使えないことを納得している。もう一度聞いた。使えない原因はと?そのガングーの原因は?と。そして、そのガングーはいつなくなる見込みなの?と。原因を聞くということは、そういうことでしょ?と。

 渋々、また、電話した。結局、ガングーの原因を、今も、チェックしているという。いつ、正常に戻るか、わからないという。ガパパの世界である。インドネシアである。私は、納得できないが、納得した。
 自分のモデムがあるので、それを使っている。